妻や同僚との出会いに恵まれ=USP教授務めた戦後移民の自分史(上)

安藤氏の業績を報じるプラネッタ・アロイス・サイト(https://planetaarroz.com.br/arroz-mutante/)

 USPピラシカーバ農学部教授を勤めた戦後移民、安藤晃彦(あきひこ)氏(92歳)が自分史を送ってきたので、ここに掲載する。安藤氏は1959年にブラジル移住、翌1960年から2002年の70歳での才定年退職まで、当地のESALQ(正式名称「サンパウロ大学ルイスデケイロッス農科大学」)に勤めた。本人曰く「横浜を出る時には、全く夢にも思わなかったブラジルの大学での教職、研究職を終えて感じたことなどを、私の結婚に関するエピソードなども交えて、是非多くの移民方々に興味を持って読んでいただきたいと考えてこれを手記風に認めました」とのこと。以下、本人からの手記。

 私は偶然にも、日本で学んだ原子力放射線による植物の突然変異育種の研究分野が、ESALQの遺伝学科で始められることを知り、ブラジルでもその新しい方法が大いに役立つのではないかと考え、1960年からそこの研究職に、後に教職に採用されました。
 そこでは、この新しい育種法を使って、イネを始めとする数多くのブラジルの有用植物の改良に心掛けてきましたが、既にその一部の改良品種は一般農家、消費者にも行きわたって居ます。大学院のマスター、ドクターも50人ほど私の研究室から世に送り出すことが出来、彼らはこの方法を多くの大学研究所などで普及に努めていると信じています。
 92歳になって、自分の移民として過ごして来た生活を顧みると、大学の教職研究職という、日本のコロニアともあまりつながりのない地味な分野でしたが、ブラジル農業には大いに役立つ裏方の仕事をして来たのではないかという、聊か自負するものであります。短い不完全な簡単な自伝ではありますが貴紙を通して何かの方法で読者に読んで頂けたらと思って寄稿した次第です。よろしくお願いいたします。

60年前に出した未だに着いていない手紙

 私は、東京大学農学部を1958年に卒業し、翌年1959年に農業技術者としてブラジル移住。以来今日まで60年間以上、ブラジルに定住して居る一移住者である。当時の日本は、大学を卒業しても未曾有の就職難であったし、一方ブラジルは発展途上国で、外国人を含めて技術者を多く求めて居り、これが私のブラジル移住の動機の一つでもあった。
 1959年にブラジル丸でサントス着、早速知人のもとに世話になったが、ポルトガル語も十分に喋れなかったこともあり、一年間は外国人向けのポルトガル語講座に通うことにした。予定通りに1960年半ばから就職活動を始めたが、気に入った就職口はなかなか見つからなかった。
 その時、偶然にも知人を通して、ピラシカーバ市にあるサンパウロ大学(USP)ルイスデケイロッス農科大学(ESALQ)の遺伝学科で新しい研究講座を開くことになり、その専門の研究員を一人求めていると云うニュースが耳に入った。
 良く調べると、新しい専門分野とは、原子力の農業への平和的利用に関するものであり、私は大学時代に偶然にも、農学部の植物遺伝育種学研究室で、卒業論文の為にイネの原子力放射線による突然変異育種法を研究して居たし、それに関する英文研究論文も二つばかり有った。
 ブラジルに来るに当たっては、ブラジルの教育分野で身を立てることなどとは全く夢にも思って居なかったものの、このニュースには大いに心が動き、ピラシカーバのESALQを訪ねることにした。
 ピラシカーバは、バスで着いてみると、緑に包まれた静かな、学校の多い教育盛んな町であり、大学は、敷地面積が1千ヘクタールもあって、その中に飛行場、動物園、植物園なども有るとのこと、日本の大学では有り得ないその広さには全く度肝を抜かれた。
 大学について、すぐに遺伝学科主任教授に面会を申し込み、幸いにすぐに部屋に通された。この主任教授は、昔ナチスから逃れて来た有名な統計遺伝学者でもあったし、原子力の平和利用には大いに関心が有り、遺伝学科でのこれからの新しい研究分野に関してはお互いに共鳴する点が多くあった。

正式名称「サンパウロ大学ルイスデケイロッス農科大学」(ESALQ、Marina Almeida, via Wikimedia Commons)

出会いに恵まれ、とんとん拍子に研究・教授職に

 こうして一応面接には問題はなかったと思われ、私もこの教授のもとで、日本からの研究を続けても良いと思うようになった。間もなく、当時は学科内のすべての人事に権限のあったサンパウロ大学カテドラチコであるこの学科主任から、遺伝学科の特別研究員への任命通知が有り、1960年10月から、横浜を出るにあたっては、想像だにして居なかったサンパウロ大学ルイスデケイロッス農科大学での研究職に就いたが、間もなく教職も兼ねる事になった。
 大学での生活は、多くの友人にも恵まれ、すべて快適であった。やがて、農業分野での原子力の平和利用に関する研究分野をすべて統合した研究センターを設立する動きが大学内に始まり、私もこれには微力ながらも全力を挙げて参加し、こうしてサンパウロ大学内に、CENA(Centro de Energia Nuclear na Agricultura )が誕生して、その中には放射線遺伝学研究室も設けられ、程なくブラジルでは唯一のコバルト―60放射線照射装置も設置されて、今後のこの分野での研究に大きな役割を果たすことになった。
 ブラジルは、年間1千万トンのコメを産出する、ラテンアメリカでは唯一の米食国家であるし、熱帯から亜熱帯、温帯にわたる実に数多くの有用植物が存在して、原子力放射線による突然変異育種の研究材料には事欠かなかった。
 ブラジルに到着以来、既に5―6年は経過しており、生活が安定するにつけて、身を固める必要性が増したが、これは本人よりも周囲の人々の意見の方が強かった。1964年のある日の事、日本の東京住まいの母から、可成り分厚い郵便が届いた。

〝神々しい〟家庭に育った女性とお見合い?

 早速明けてみると、母の知り合いから、私の将来の伴侶として一女性を紹介され、彼女の履歴書、並びに何枚かの見合い写真が同封されていた。勿論、私も興味があったので、写真は兎も角、早速履歴書を見たが、女子専門学校卒業と共に、家族の紹介があり、それには父方の祖父は明治神宮宮司、又、母方の祖父も伊勢大神宮の大宮司と有り、まるで〝神々しい〟家庭に育ったとあるではないか。
 こういう女性には、日本にでこそより幸せに過ごせるチャンスが大きく、この地球の反対側の田舎町であるピラシカーバで、共に日本よりも幸せな家庭を築く自信や保証は私には皆無であった。
 こういう理由で、私はキッパリと断わりの返事と共に書類写真をすぐに丸々母に送り返した。私は、これで今回の写真によるお見合いには完全に終止符が打たれたものと信じて居た。
 その後、研究は国際原子力機構(International Atomic Energy Agency、IAEA)からの研究費援助も有って順調に進み、その分野での学会が1965年に台湾の台北で開かれることになり、私もブラジル代表として招かれた。今でもそうであろうが、当時はブラジルから台湾に行くには、日本の羽田経由が最も便利であった。これは私にとっては好都合で、ブラジル移住6年にして、早くも訪日のチャンスが訪れたことになり、私の父母も大満足であった。
 特に信仰心のあつい母は、私がはっきりと断った、あの〝神々しい〟家庭に育った女性に未練があったらしく、その縁談を持ってきた友人から、その女性は未だに独身であることを聞いて、私には内緒でどこかでのお見合いを考えて居たに違いない。東京では、ごく短い滞在期間ではあったが、母の強引な説得で、殆ど気も進まなかったが、既にキッパリと断ったその女性と会うことになった。
 適当な見合い場所が見つからなかった所為か、見合い場所は東京の原宿の改札口を出た所で、そこで一応自己紹介後、その後近くの喫茶店で二人がゆっくりと話すと云うことにしていたようだ。私は言われたまま、改札口を出た所で、その女性と同伴の彼女の母の二人に自己紹介をして、やがて近くの喫茶店で二人で話をすることになった。
 座って何か飲み物をというときに、手に取ったメニューにあるガラナという文字が目に飛び込んで来た。私は、1959年ブラジル移住時、サントスに上陸前、船がリオに寄港したおり、リオ在住の友人の案内でコルコバードのキリスト像を見に行ったが、その折、喉が渇いたので飲み物を注文、出てきたのがグアラナで、世の中にこんな旨い飲み物があるとは…と思ったぐらいに気に入った。

断る意味で「一度ブラジルに来てみませんか?」

 それでメニューを手にした時に、すぐにブラジルでのグアラナが日本ではガラナと発音されて居るに違いない思い、早速注文したが矢張りそのとおりで、このエピソードがきっかけで、その後の会話はスムースに行った。話してみると、この女性には、〝神々しい〟所が一つもなく、一般の通勤女性と全く変わらなかった印象を受けた。それでも既に、母にはキッパリと断った相手の事でもあり(勿論本人は知らなかった筈だが)、私の態度もいささかギコチなかったと思う。
 私はその後すぐに台湾に渡ったが、会議後にブラジル帰国するために再び羽田に降り立った。驚いたことに、到着ゲートを出た所に、彼女が居るではないか。これは、後で聞いたところに依ると、私が羽田に着いた頃、彼女はちょうど友人と神宮球場でプロ野球の巨人―阪神戦を観戦中だったとのこと。彼女の母は、航空会社で私の羽田到着の時間を調べて、球場内放送で娘を呼び出して、羽田に私を迎えに出させたとのことであった。
 私は、聊か気恥ずかしい気持ちもしたが、ここまで彼女の母親が私を気に入って呉れたことには、若干満足した覚えが有る。数日して羽田からブラジル帰国の途についたが、送りに出ていた彼女に、他の話題と共に、「一度ブラジルに来てみませんか?」と、二度と会う事ないだろうというお別れの意味もあって言った。
 何故ならば、当時は日本からブラジルへの旅行は、直接の空路は無く、その費用、時間を考えると、ごく一部の人に限られて居て、まさか独身の若い女性が一人で遠いブラジルに長い時間をかけてやって来る筈は無いと思って居たからである。(続く)

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