《特別寄稿》開国時の日本人の美徳「清き明き直き心」(きよきあかきなおき)=渡辺京二『逝きし世の面影』から学ぶ=サンパウロ在住 毛利律子

『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社、2005年、604頁)

今こそ必読の書『逝きし世の面影』

 「逝きし世」という、葬り去られた時代とはいつのことを指すのか。
 「あのころ…」――それは江戸文明と俗称される18世紀初頭に確立し、19世紀明治期を通じて存続していた、我々の先祖の、絵の様な美しい社会のことである。
 渡辺京二は大著『逝きし世の面影』で、「昭和を問うなら開国を問え。そのためには開国以前の文明を問え……」と、近代日本が失ったものの意味を、根本から問い直している。
 文庫本で約600頁全編に、当時訪日した150人に及ぶ欧米人による手記・記録、見聞録から引用し、江戸末期の(=欧米化される以前の)日本文明を解き明かすとともに、明治維新と敗戦で日本が失ってきたものの意味を根底から問い糾す。
 全編に、これらの外国人に依る第一級文献が、絵のように美しかった時代の日本人を描くのである。それらは現代の私たちが再読するに、計り知れないほど新鮮で教訓に溢れ、かつ尊く、誇り高い日本民族社会の文明を教えてくれる。その深い憧憬描写は、現代の日本社会が国際社会から受ける絶賛の声など、はるかに及ばないのである。
 江戸末期、日本が先祖伝来育んできた一つの文明。欧米化される前の日本人が如何にのびのびと自由で大らか、質素倹約を旨とした楚々とした日々の営みをしていたか。礼節を守り、貧富の差も少なく、皆が寄り添い幸せに暮らしていたことか。
 正月には大人も子供も一つになって歓声を上げ、凧揚げ、羽根つき、駒回し、餅つきに興じる。宮大工の生み出す数々の荘厳な寺社仏閣、一方、庶民の簡素な住まいや生活道具、食器、装身具、おもちゃに至るまで、特有の知恵から発した民具類は、知的訓練を従順に受け入れる習性に基づいて産み出され、継承されてきた。

『肩書のない人生 渡辺京二発言集 2』(渡辺京二、2021年、弦書房(げんしょぼう))

 さらには、外国を模範として真似し、工夫し洗練する国民の根深い特性。国家や君主に対する忠誠心。そういう国民的特性が一千年以上も脈々として受け継がれている事実。訪日した多くの欧米人は、自国の歴史には皆無の、そのような国民性にただ、呆然とならざるを得ない。
 ある外国人は日本を絶賛し、あるいは、辛辣に罵倒し批判するものもいるが、やはり日本は、「捨てた過去よりも残した過去の優れた文化の方が多い」と、認めざるを得ない。きわめてまれな独特の文化が集積した国なのであった。
 著者・渡辺京二(1930―2022年12月25日・行年92歳)。熊本県の在野の偉大な日本近代史家の一人。生涯、水俣病患者で作家の石牟礼道子を深く支えた。生前渡辺氏は、「私はずっと売れぬ本の著者であった。ところがこの本は売れた。…世間には、日本はこんなにいい国だったのだぞ。そう思いたい人が案の定いたからである」と述べている。

そう…、日本はこんなにいい国だったのだ

 著者はいう。ある文化の特徴は、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録もされにくい。よって日本を訪れた外国人の記述を収集・分析することで、日本の持つ文化的特徴を掴むことができる。
 江戸末期、日本を訪れた欧米人は、西洋文明こそが世界に優越すると確信していた。しかし、日本に上陸してすぐに、彼らの見識は根底から覆った。その結果、ほぼ全員が、当時の日本文明に讚嘆の言葉を惜しまなかった。そして、むしろ進んで西欧文明の批判・反省にまで言及することになったのであった。
 それでは、彼らを痛く感動させた日本人はどのような文化的生活を営んでいたのか。感銘深い言葉や感想はあまりに膨大な数に上るので、14章で構成された各章から印象深い点をいくつか取り上げ、要約して紹介する。

陽気な人々
親切と純朴、信頼に満ちた民族。住民全ての丁重さと愛想の良さ、地球上最も礼儀正しい民族

 概ね、人々は暮らしに満足しており、幸福である。安穏で静かで幸福な日常生活。互いが、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎しみ深い物質的満足感に満ちた生活を楽しんでいる。彼らを眺めていると、世の中に悲哀など存在しないように見える。
 諸外国に比べ、あらゆる社会階級は平等である。皆、こざっぱりとして身なりもよく、幸福そうである。財産に多寡があっても、金持は高ぶらず、貧乏人は卑下しない。また、貧困な隣人同士の密集地域でも、ケンカ争いはなく、犯罪を誘発することもなく、いたるところが清潔である。
 毎日がお祭り気分といった心意気で、隣人が和気あいあいとして、助け合って暮らしている。町の角角の路上演芸や、小さな芝居小屋などは、いつも繁盛して、観客と役者が一体となって楽しんでいる。
 日本では時間はゆっくり流れている。人々は勤勉だが、働きたいときに働き、休みたいときに休んだ。「労働は苦役」とか「労働生産性」といった概念は無いようで、共同作業の際には声を合わせ、自分たちのペースで、楽しみながら取り組んでいる。また、江戸の火事が鎮火した後には、瞬時に家が建ち並ぶことは、驚異的であった。

簡素と豊かさ

美しい棚田の光景(ORURIさん)

 当時の欧米人の著述の内で最も驚かされるのは庶民生活の豊かについての証言である。
 下田に在住したハリスによると、郊外の豊饒さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。おそらく、日本は天啓を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間が欲しいというものが何でもこの幸せな国に集まっている。
 日本人は芸術の享受、つまり美意識が下層階級にまで行きわたっている。芸術は万人の所有物であって、日常生活の隅々まで、ありふれた品物を美しく飾る技術も確立している。家具等は数も少なく質素でシンプルである。
 使節団のベルクは、「平野は肥沃でよく耕され、山には素晴らしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で温和である」と絶賛する。
 村々や町は、手入れが行き届き、豊かに実った作物、果物とともに、眼に麗しい椿や梅に桜、道端の花々が咲き誇る。このような国が他にあるだろうか。豊かで清らかな水が常に流れ、耕地は花壇のように手入れされ、雑草は一本も見られない。自然と人間が見事に調和している。
 そして、それぞれが異口同音に表現するのは、「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、豪奢贅沢に執着心を持たず、非常に高貴な人の館ですら、簡素、単純極まるものである。…なんの隠し事もない、ガラス張りの家に住むがごとく、簡素な暮らしに満足している」
 スウェーデンの植物学者一行やリンネの弟子たちは、豊かな自然の風趣と愉楽に溢れた日常の光景に圧倒されるのである。

自然を愛でる

朧月夜の桜(Hōkūleʻaさん)

 日本人は、下層階級に至るまで、万人が生まれつき花を愛し、花見をし、実際に気に入った植物を育てている。花の他にも、月、雪、虫、それらに伴う俳句など、四季の移ろいの中に、純粋な喜びと高邁な遊びの源泉を見出している。

親和と礼節
女・こどもたち

 日本人の悪徳は性的放縦と飲酒であった。特に女性は性病のために目や皮膚病を著しく病んでいた。これらは社会の病巣であったが、女性の地位は必ずしも低くなかった。他の東洋諸国に比べると大きな自由を許されている。家庭生活に不満があればいつでも離婚できたし、離婚歴は当時の女性にとってなんら再婚の障害にはならなかった。男性より出しゃばらないだけで、決して立場が低いわけではない。
 日本は子供にとって楽園である。日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない。子供を叩く・殴るといったこともほとんどない。こどもたちが家にいるのは食事と寝る時だけで、年中、道端が彼らの遊び場だった。
 庶民は難しいことは考えず、時の流れと自然の中に身を任せている。世の中の苦労を気にかけず、欧州で見られるような生きる苦悩、心労に打ちひしがれた顔つきなど全く見られない。大人も子供も同じように無邪気である。地域が非常に子供を慈しみ、愛情深く接している。誰もが子供の目線に近づき、微笑みを以って顔を覗き込んでいる。
 どこもかしこも、親和的で、挨拶を欠かさず、礼節を弁えていた。押しなべて、人々は礼儀正しく、優雅で気品に満ちた民であった。

政治と庶民

 日本は江戸幕府による専制統治下にあるが、民衆は政治的に抑圧されることもなく、政府に搾取されることもなく、社会は幕府の存在をほとんど意識していない。それどころか、民衆には軽犯罪の相互抑止といった、ある程度の自治が認められていたのである。故に彼ら自身は生活にすっかり満足している。
 当然ながら江戸時代にも豪農や豪商は存在したし、逆に極端に貧しい地域もあった。それでも、産業革命後(資本主義化後)の欧米に比べれば、まだまだ当時の日本の貧富の差は小さかったということがいえる。

武士のやせ我慢

 支配階級である武士の教育では「商売や金勘定は卑しいこと」とされ、ヨーロッパの支配階級である貴族の裕福さとは対極をなしていた。「武士は喰わねど高楊枝」と言う諺のように、武士は貧しくて食事ができなくても、あたかも満腹を装い、楊枝を使って見せる。武士の清貧や体面を重んじる気風を貫き、やせがまんをしたほど、武士は一般的に貧しかった。
 外国と交渉ごとに当たった幕府役人の「欺瞞」や、排外主義的な浪人の脅威に悩まされながらも、一旦親しくなると、その屈託の無さ、高潔な人格に外国人の疑心は消えてしまうのであった。
 大名家も、江戸への参勤交代や頻繁な国替え、城や河川整備の普請などで、必ずしも財政的なゆとりがあるとは言えなかった。日本ほど河川事業を国是とした国は世界にも珍しい。
 農民も多額の年貢を収奪されていたようなイメージを持つが、新たな農具の発明などにより農業生産性が上がっても、土地の評価(石高)は頻繁に更新されなかったため、江戸時代の農民は我々のイメージほど極端に貧しかったわけでもない。

宗教
信心深く・教育熱心

 信心深く寺に詣でるのは下層階級と女性のみで、武士階級は宗教に対して懐疑的であった。武士階級の多くは孔子の教え(論語)を規範としている。子供たちへの教育は非常に熱心で、家庭・地域が一体となって、基本的な教育を受けさせる体制が整っている。
 日本列島が常に自然災害とともにあり、そういった環境で生きる民族にとって、人間も自然の一部であると考える自然崇拝こそが、日本人の神仏混淆の宗教として国土に深く根付いたのである。
 日本は相対的に自然災害が多く発生する。これは人間の力ではどうにもならず、被害を受けても、不屈の精神で立ち直らなければならないという気概を一般的に抱いている。
    ☆
 以上、ほんの断片を拾ってみたが、これでは当時の外国人の眼差しの極意を紹介したことには全くならない。ぜひとも新聞の読者には、一度この大著を手にして、日本文化の変遷をじっくりと辿ってみることをお勧めしたい。
 著者はこの本を著した目的を次のように解説している。「私の意図するのは古き良き日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図は只一つの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人の、あるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性が生き生きと浮かんでくるのだと私は言いたい。そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその実相をつかむことなしには、決して解き明かせないだろう」

菜の花畑(みにころんさん)

 私自身は、一時帰国の際に強い郷愁を感じ涙するのは、朧月夜であり、満開の桜、菜の花畑、瑞々しい青田、田舎の畦道で行き交う人々との優しい挨拶。それらは決して「逝きし世」のものではない。歴然として、脈々として生き残り、この国に生まれたことを心から深く感謝し、何処にいても、帰りたいと切望して止まない日本の姿である。
【参考文献】
※平凡社ライブラリー552
※渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社

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