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小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=159

「ブラジルへ来なかったら、こんなことにもならなかったのに……」
 と、とめさんらしい鼻声が聞こえた。
「かと言ったって、これは運命と言うもんや」
 多助の声である。
「良ちゃんは可愛い娘だったのにな。年頃になったら信二にちょうどいいと思ってたのに……」
 信二の母親の声だ。
「この雨では交通の便もないし、四〇キロも先の町まで歩くこともできない。どうしたもんやろ、ここまで思いあぐんで連れてきたんやけど……」
 再び多助の泣き声が聞こえた。
「ほんまにな」
「困ったな」
 それぞれ、困惑の声が重なっていた。
「こうしなはったらどうでしゃろ」
 信二の父親の声がした。それからの話はずっと低くなって信二の部屋まで届かなかった。
「そんな風にしましょうや。子供たちには、病院に行ったとでも言い、内緒にして……」
「家に大きな盥があるから、せめて湯灌はさせてあげて……」
 一体、何が起こったのだ。子供たちに内緒とは何事なのか。信二は跳ね起きて、その場に行きたかった。しかし、子供には内緒という言葉が妙に気になって、知らぬ振りをせざるを得ず、布団の中で身体を縮めていた。緊張が身体を震わせた。堪えきれず、布団の隙間から外を覗いた。すると、白く湯気の立ち込める中に、蝋のような少女の素足が見え、裸体の下半身がのぞいていた。それを繰っているのは大人たちの手だった。
(良子ちゃんは死んじゃったんだ。土ん中に放り込まれて、もうこの世に還ってこないんだ。何てことだ。解らない。誰にも解っちゃいないんだ。誕生も、死も、何も彼も、解っちゃいないんだ)
 信二は布団の中で訳の解らないことを呟き、身を硬直させていた。
 
(五)
 
 それから、二年の月日が流れた。
 信二は、フォイセ(長柄鎌)を肩にして家をでた。森に分け入り、数本の鍬の柄を物色するのが目的だ。斜めに吊った背の猟銃は、獲物を見かけた時に、それを射止めるための、植民地の慣わしであった。鍬の柄に適した木材には、柔軟にして腰の靭いサップーバとかマミカなどがある。

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