《記者コラム》ジョブスより幸せ度が高い白寿移民=「私は世界で一番幸せな男です」

ジョブス「いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった」

2010年世界開発者会議でiPhone4を披露するスティーブ・ジョブズ(Matthew Yohe, via Wikimedia Commons)

 世界最大のテクノロジー企業アップルを創業して、世界的な名声を獲得し、巨万の富を貯築いたスティーブ・ジョブズ(1955―2011年)が、56歳で病没する直前に残した言葉は、次のようなものだったと言われる。
 《私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。
 人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。(中略)
 この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる》との寂しい心象風景が描写される。
 その上で《(富や名声よりも)もっと大切な何か他のこと。それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね》と自らの華やかな人生を振り返った。
 最後に《私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと一緒にいてくれるもの、あなたに力を与えてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ》と世界が誇る明晰な頭脳は指し示した。
 つまりジョブスにとって「私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた思い出だけだ。これこそが本当の豊かさ」が一番価値のあるもので、家族や周りとの人間関係こそが、富や名声に勝る最上の宝だとの感慨が込められている。
 15日午前にブラジル日本文化福祉協会で開催された白寿者表彰式を取材しながら、改めてジョブスの言葉を思い出し、当地に移住して99歳以上を迎えた皆さんの「幸せ度」は高いと感じた。

坂本明さん「私は、世界で一番幸せな男です」

ポ語で感謝を述べた坂本明さん

 市井の移民だが、ジョブスより幸せ度が高い人もいる。例えば、頼まれたわけでもないに表彰された返礼をしたいと申し出て、壇上でマイクを握ってポルトガル語で次のように元気に語った坂本明さん(99歳、和歌山県出身)だ。
 「皆さんに感謝します。みんなが助けてくれたおかげで、長生きしました。私は、世界で一番幸せな男です。
 私は10歳でブラジルに来ました。当時は、飛行機がありませんでした。今はビューンと飛んでこれますが、あの頃は船だけで45日間かかりました。私はモジアナ船のコーヒー耕地に入植しました。皆さんに感謝します。ここにいる皆さんにも幸せを!」と手短に語ると、かぶりつきにいた、彼の世話をしているであろう娘さんやお孫さんの一団からは、まるでひいきの人気歌手に贈るような大歓声が上がっていた。
 坂本さんは途中「じゃあ、日本語で」と言いかけ、たどたどしい1世のポ語から切り替えようとした。だが、結局は最後までポルトガル語でしゃべりきった。普段、自分を世話してくれている人たちの顔をみて、そう判断したのだろう。
 自分の意志でなく、10歳の時に親にブラジルまで連れられ、以降の89年間をこの地で過ごし、子孫を増やして良好な関係を築き、大事にされて老後を過ごしている様子が、その一場面から感じられた。
 家族に支えられて長生きして「自分は幸せだ」と感じている坂本さんは、きっと「幸せ」がお金なら世界有数の大金持ちに違いない。

激動の人生を送った戦後移民の生き様

 15日、99歳以上の生誕を祝う白寿者表彰式がブラジル日本文化福祉協会の大講堂で盛大に行われ、36人がその栄誉に浴した。うち22人が本人出席で、11人が家族の代理出席だった。
 石川レナト文協会長は「様々な困難を乗り越えて、99歳以上を迎えられた皆さん、日系社会を作り上げて下さった人生の大先輩である皆さんに、感謝を捧げます」とお礼の言葉を贈り、来賓から白寿者に表彰状とプレゼントが渡された。

佐野武さんと家族

 白寿者を代表して、佐野武さん(100歳、静岡県出身)が、次の返礼の言葉を述べた。
 《なんと温かい、盛大なおもてなしを受けたことでしょう。危険な地政学的リスクにさらされております母なる生国日本に比べ、その恐れのごくごく少ない、天然資源の豊かな、ここ養国ブラジルで、このような温かい、私たち36人の生誕100歳の祝福を受け、記念品までいただき、ただただ感激、感謝のいたりでございます。
 顧みますと昭和20年、学徒出陣のもと東京渋谷の関東軍自動車部隊に入隊、B29の東京急襲では嵐のような焼夷弾、250キロ爆弾の洗礼を受け、それでもなお、福島の山奥で、アメリカ本土逆襲攻撃訓練に明け暮れておりましたが、終戦。
 サンパウロから帰国していた親戚の誘いのままに、1956年オランダ船チチャレンガ号にて、70日間の航海、そしてカフェ農園で働きました。私たち、言葉も通じない、西も東も分からない所で、汗と涙、血の出るような思いも堪えて、コロノ(農業労働者)として働きました。私も土地を求めて自営、ブラジル国境警備騎兵連隊への青果物供給の出入りを許され、ポンタポラン市、隣国パラグアイ国ペドロ・ファン・カバリェロ市に五つのスーペルメルカードを経営させていただきました。
 その間、2回の祖国日本訪問、そして15年間の日本就労もさせていただきましたが、なんということでしょう――苦楽を共にした最愛の妻の突然病死の悲劇に襲われてしまいました。その悲しみを癒すために、更に5年の日本滞在を重ねました。
 ただいまは、子供、娘夫婦の手厚い介護、保護を受けながらサンパウロ市アクリマソンにて、温かい100歳の静養をさせていただいております。
 不肖本日、この栄典に推挙されました36名の名のもとに、その代表としてこの素晴らしい企画と場を提供された皆さま方、ご多忙中にも関わらずお出でいただき会場に花を添えていただいたみなさま方、厚く、厚く、お礼申し上げます。ありがとうございました》
 激動の人生を送った戦後移民の生き様が伺える味わい深いスピーチだ。表彰式の後、佐野さんに直接に話を聞くと、100歳にしてコンピューターを使い、挨拶原稿もワードで書いたという。「いつもユーチューブをたくさん見ている。特に健康とか食べ物関係」とのことで驚いた。
 父が水産業を営んでいた関係もあり、遠洋漁業で有名な焼津で5歳から育ったので、「カツオとかマグロ、桜えびの味にはうるさいよ。ブラジルでは食べられないね、あの味は」と遠い目をした。戦争で招集され東京大空襲を経験して、福島の山奥でアメリカ本土逆襲攻撃訓練中、終戦を迎えて生き残った。父が若いころにフィリピンで事業をしていたので自然と外地を目指した。
 当地ではポンタポランでスーパー5軒経営していた時代、毎週サンパウロまでトラックで商品の買い出しに来ていたと聞き、更に驚いた。家族に囲まれながら「子供たちの世話になってありがたい」と笑顔を浮かべた。

最長老の石川義夫さんと家族

眼鏡、補聴器いらずでツカツカ歩く102歳

 表彰式で最年長102歳の石川義夫さん(2世、サンパウロ州バウルー市在住)は一番足元がしっかりしており、ツカツカと歩いて賞状を受け取っていた。1922年7月17日にサンパウロ州セラーナ市生まれの2世だ。今回の36人中、8人が2世という点にも感銘を受けた。
 健康の秘訣を聞くと「今でも毎日、庭の草取りなど体を動かしている。天理教の『ひのきしん』だよ」と信心の篤さを強調した。「日の寄進」とも書き、「親神様のご守護に感謝をささげるために一日の働きをお供えすること」だという。
 娘の酒井裕香さんは「父は何でも食べます。薬も飲んでないし、眼鏡もしません。耳も聞こえます」というので、更にびっくり。聞けば終戦直後、ブラジル伝道庁の初代庁長の大竹忠治郎氏が勝ち組過激派に面会を申し込まれた際、特別な役割を果たしたという。
 石川さんは、「大竹庁長が勝ち組に『日本は戦争に勝ったか、負けたか?』と聞かれた際、ボクが勝ち組の人との間に割って入って座ったんです。その時は、なんだかよく分かりませんでしたが、庁長からの信頼感は伝わってきました。後から聞いたら、庁長がもし『負けた』と答えていたら、撃たれるかもという危うい場面だったそうです。でも庁長は察して『日本には原爆が落とされた』とだけ言って、負けたとは言わなかった。そそくさとその人は帰りました」という手に汗握る場面に立ち会った。
 102年間も生きていれば、本何冊分もの歴史があると痛感させられるエピソードだ。

辞世の句「ブラジルで希望に満ちた九十八の春」

 白寿者表彰式で家族が代理出席したうちの一人は、山田カオルさん(神奈川県)だった。彼女はちょうど99歳の誕生日の6月6日に亡くなった。この白寿者表彰に彼女を推薦した地元サウーデ文協の鈴木清ジョージ元会長と会場で話していたら、なんと「6月1日に前倒しで誕生日のお祝いパーティをしたばかり。すぐ後に出席者には直筆で感謝のメッセージを送ってくれたんです。その直後に…」とつらそうな表情で教えてくれ、別れを惜しんでいた。

前列左から3人目が山田カオルさん。3月30日、第5回芭蕉白河の関俳句賞の海外の部表彰式で撮影

 山田カオルさんとは、福島県白河市による第5回芭蕉白河の関俳句賞の海外の部表彰式が3月30日に福島県人会により同会館で行われた際、最後に会った。特選に選ばれた彼女の句は「ブラジルで希望に満ちた九十八の春」というもの。
 その際、本人にどんな気持ちを込めて俳句を作ったのかと聞くと、「希望に満ちた98年間だったとの気持ちを込めました。長生きさせてもらって良いことがありますね」とほほ笑んでいた。今思えばあれは「辞世の句」だった。
 香川県で1925年6月6日に生まれ、わずか3歳の時、親に連れられてブラジルに移住。できたばかりのアリアンサ移住地に入植し、第3アリアンサ日本語学校で習い、小学校4年を終えた。一子供移民であり、ジョブスに比べて高学歴も財産にも縁がなかっただろうが、長寿と幸せには恵まれていた。
 「ブラジルで希望に満ちた九十八の春」には、その気持ちが込められている。彼らのような高齢移民の自己肯定感の高さには、学ぶ点が多いのでは。(深)

全員で記念撮影

■白寿表彰者リスト■

 西村愛子(99歳、北海道)、山下輝子(99歳、新潟県)、谷口貞江(99歳、山口県)、東民子(100歳、奈良県)、井口たき子(99歳、長野県)、田原艶(100歳)、石川義夫(102歳、サンパウロ州セラーナ市)、田中芳子(100歳、熊本県)、小柴隆俊(99歳、群馬県)、小山玉枝(100歳、熊本県)、山田カオル(99歳、香川県)、安倍チエ子(100歳、サンパウロ州プレジデンテ・アルベス市)、佐野武(100歳、静岡県)、服部馨(99歳、福島県)、田中三子(99歳、鹿児島県)、沖山スズ(100歳、サンパウロ州イグアッペ市)、菅野 野村 陽(100歳、福島県)、大山弘(99歳、福島県)、横谷眞里雄(99歳、サンパウロ州イグアッペ市)、浅井せつこ(99歳、愛知県)、柳瀬 管野 千寿(99歳、サンパウロ州バウルー市)、代田正二(99歳、長野県)、大堀よしこ(99歳、サンパウロ州グアラサイー)、上村アイ(100歳、新潟県)、鈴鹿山留(99歳、広島県)、花田 千里(99歳、サンパウロ州プロミッソン市)、坂本明(99歳、和歌山県)、木田育代(99歳、和歌山県)、船橋ミツエ(100歳、福岡県)、川崎二三男(100歳、北海道)、宮之原ヒロコ(99歳、サンパウロ州カフェランジア市)、金谷のぶ子(99歳、岡山県)、松本のぶお(101歳、静岡県)、甲斐修蔵(100歳、熊本県)、五十嵐司(100歳、東京都)、前田定信(100歳、沖縄県)

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