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独立以来190回のクーデター=ボリビアの政治動乱の歴史

6月26日、ラパスの大統領官邸を囲む武装兵士たち(27日付ドイチェ・ヴェレの記事の一部)
6月26日、ラパスの大統領官邸を囲む武装兵士たち(27日付ドイチェ・ヴェレの記事の一部)

 南米ボリビアで26日、前陸軍司令官率いる反乱軍によるクーデター未遂事件が発生した。同国の歴史は数多の動乱やクーデターの試みで特徴付けられ、多くの政治指導者が打倒され、暗殺された。1825年の独立以降その数実に190回以上のクーデターや革命を数え、今も政治的な不安定さが続いていると27日付ドイチェ・ヴェレ(1)が報じた。
 今回のクーデターはこの5年間で2度目の試みだった。独立以来、都市部の政治エリートと農村部の貧困層との対立が繰り返されている。これまで軍民独裁、民間独裁、三頭政治、政府評議会など多数のクーデターが繰り返され、任期を全うしない大統領を数多く出してきた。
 だがカルロス・メサ元大統領(2003~05年)は、著書『ボリビアの大統領:投票箱と銃のはざま』の中で、外国で広く信じられているほど多くの犠牲者は出ていないと断言した。同氏によれば、よく引き合いに出される200回近いクーデターという数字は「完全に独断的なもの」であり、同国には37の政権があったが、厳密に言えばうち23だけが「従来の概念におけるクーデター」、指導者の打倒を伴うものだと指摘した。
 この国には象徴的なクーデターがいくつもある。1930年、エルナンド・シレス・レイェス大統領は、閣僚に大統領職を譲り、その政権は30日でクーデターによって打倒された。同国初の女性大統領リディア・ゲイレル氏は、アルベルト・ナトゥシュ・ブッシュ将軍の血なまぐさいクーデターが失敗した後、79年に下院議長を兼任し、暫定大統領に就任したが、1年後に別の将軍によって退位させられた。
 チャコ戦争(1932~35年)の英雄ヘルマン・ブッシュ中佐は1939年に自殺し、エルナン・シレス・スアソは1984年にクーデターを計画する武装集団に10時間誘拐された。
 2003年、ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサーダ大統領が辞任し、その後任には副大統領のカルロス・メサ氏が就任した。その後、3度にわたって辞任し、05年6月9日に議会によって最後の辞任が受け入れられた。その後、最高裁長官エドゥアルド・ロドリゲス氏が暫定的に政権を引き継ぎ、05年12月の総選挙でエボ・モラレス氏が勝利した。
 13年、憲法裁判所は、国が09年に多民族国家として再定義されたため、モラエス大統領の最初の任期は数えないとの独自の判断の下で、モラレス氏が第3期を目指して出馬できる道を開いた。
 15年9月、ボリビア議会は憲法改正案を可決し、モラレス氏が再選に立候補することを認めたが、16年2月21日の国民投票で否決。この決定にもかかわらず、同氏は19年に非憲法的な再選を目指して立候補し、その年の10月20日、選挙翌日に不正疑惑が持ち上がり、大規模な抗議デモが発生した。
 地元の選挙当局はモラレス氏の勝利を宣言したが、米州機構(OAS)の監査では重大な不正が明らかになり、19年11月10日、軍の圧力により同氏は辞任を表明し、翌日に国外へ出国してクーデターを糾弾した。
 19年11月12日、野党の上院議員ヘアニネ・アニェス氏が社会民主運動から暫定大統領として就任し、新たな選挙の実施を約束した。この間に激化する混乱の中で30人以上が死亡し、数百人が負傷する暴力的な衝突が発生した。
 20年5月に予定されていた新たな選挙はパンデミックのために延期され、最終的に20年10月、モラレス氏の同盟者であるルイス・アルセ氏が社会主義運動党から出馬。55・1%の得票率で勝利し、大統領に就任した。
 21年には州知事選が行われ、与党は9州のうち3州しか獲得できず大敗した。同年3月、元大統領のヘアニネ・アニェス氏が逮捕され、翌年に憲法違反で有罪判決を受けて10年の刑を宣告された。
 23年9月、モラレス氏は25年の大統領選挙に立候補する意向を表明したが、その後、憲法裁判所が無期限の再選を禁止する判決を下し、同氏の出馬資格が否定された。
 24年、モラレス氏とアルセ現大統領の支持者は党内の対立を反映して二つの党大会を開催した。アルセ支持者はモラレス氏を党首から排除し、グロベル・ガルシア氏を任命したが、最高選挙裁判所(TSE)はこれを否決し、モラレス氏を党首として維持することを確定した。
 そのような極めて不安定な政情の中で、今回のクーデター未遂は起きた。

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