11月19日が「ペレ王の日」に=通算1千ゴール達成した日

「サッカーの王様」ペレ(Foto:Paulo Pinto/Fotos Publicas)
「サッカーの王様」ペレ(Foto:Paulo Pinto/Fotos Publicas)

 ルーラ大統領は2日、「サッカーの王様」ことペレが1969年に通算1千ゴールを達成した日にちなみ、11月19日を「ペレ王の日(Dia do Rei Pelé)」に定める法案を承認した。同日付G1サイトなど(1)(2)が報じた。
 この法案は、ルシアノ・ドゥッチ下議(社会民主党・PSD)とフェリペ・カレラス下議(PSD)により下院に提出され、昨年12月に承認を受けた。上院に送られ、ジョルジ・カジュル上議が報告者を務めるスポーツ委員会(CEsp)に提出、承認された。
 ペレの功績やスポーツ界への貢献、ブラジルへ与えた影響を強調したこの文章が6月11日、大統領に裁可を求めるために提出された。
 ペレは「サッカー王」のみならず、「世紀を代表するアスリート」としてスポーツ界に認められ、国民的存在となった。国際サッカー連盟(FIFA)選定の「20世紀最優秀サッカー選手」も受賞している。
 彼の生涯を再評価する動きは、亡くなった2022年12月29日以降も続いている。ポルトガル語辞書には「ペレ(pelé)」という形容詞が追加され、その品質、価値、優越性によって他の何者にも匹敵しない、並外れて優れた存在を表す言葉となった。
 サントスFCで頭角を現し、セレソン(ブラジル代表)でその名を轟かせたペレは、現在でもW杯を3度制した史上唯一の選手として記録されている。
 ペレ(本名:エジソン・アランテス・ド・ナシメント)は1940年10月23日にミナス・ジェライス州南部の質素な家庭に生まれた。父はサッカー選手のジョアン・ラモス・ド・ナシメント氏(通称:ドンジーニョ)で、結婚当初はアマチュア選手で給料が少なく、生計を立てるのに苦労した。母のセレステ氏は、今年6月21日に101歳で亡くなっている。
 幼い頃からペレというニックネームで呼ばれて、父のようにスポーツ界で活躍することを望んでいた。一家はサンパウロ州内陸部のバウルーに移り住んだ。15歳の時、ペレはサントスFCにスカウトされ、1956年に同チームとプロ契約して頭角を現した。
 早くも翌年、次の年にW杯を控えたセレソンに招集された。17歳の時にスウェーデンで行われたW杯に出場し、交代要員だったにもかかわらず、最初の2試合で6ゴールを決め、ブラジルの初優勝に貢献した。翌年の南米サッカー選手権では得点王に輝いた。
 1962年のW杯チリ大会では、1次リーグ初戦のメキシコ戦で好プレーを見せたが、続くチェコスロバキア戦で筋挫傷に見舞われ、その後の大会は欠場した。1970年、すでに「サッカー王」として名を馳せていたペレは、29歳にしてW杯メキシコ大会で絶頂期を迎える。6試合で4ゴール、6アシストを決め、世界中を魅了してブラジルを3度目の優勝に導いた。
 ペレは選手としてのキャリアを終えるまでに1365試合に出場し、通算1283ゴールを決めた。サントスFC在籍期間のみを見ると、彼は全1114試合で通算1088ゴールをマークし、1試合平均0・97ゴールという驚異的な数字を残した。
 フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領(当時)の招聘を受け、1995〜98年までスポーツ大臣も務めた。

最新記事