《記者コラム》渋沢栄一の隠し子ブラジル移住説?=あちこちに残る「痕跡」や「足跡」

2024年7月3日発行の一万円札見本(国立印刷局、Wikimedia Commons)

1世紀前から南米に目を向けていた渋沢栄一

 日本では新紙幣の発行が3日から始まり、1万円札の顔には日本の資本主義の父で実業家の渋沢栄一(1840~1931年)が選ばれた。その渋沢栄一とブラジル日本移民の間には、深い関係があることは案外知られていないのではないか。
 渋沢栄一は1840年、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれ、日本初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立。明治政府で大蔵省の一員、その後は実業家として現在の日本の国づくりに辣腕を振るい、1931年、惜しまれつつ91歳でこの世を去った。
 その間、渋沢が設立に関与した企業は500社を超え、その多くが存続し、例えば東京証券取引所、王子ホールディングス、帝国ホテル、東京海上日動火災保険、東京ガス、東洋紡、東日本旅客鉄道、東京電力ホールディングスなど今の日本経済の骨組みを作った。
 と同時に、彼はブラジル移住の最初の基盤も作った。明治の日本の課題であった人口増や貿易などを考えて、100年前に南米の将来性を見越してブラジル移住事業を進めた。今でこそ「グローバルサウス」などと言われているが、渋沢の先見性は卓越していた。

ブラジル各地に残る渋沢栄一の足跡

 渋沢栄一のブラジル移住への貢献を三つ選ぶとすれば、(1)ブラジル最初の日本人植民地であるイグアペ植民地(桂植民地など含む)を開設した伯剌西爾(ブラジル)拓植株式会社創設、(2)アマゾンに日本人植民地を拓いた南米拓殖株式会社創設、(3)移民の教育を目的とする海外植民学校の創立に関わったことだろう。
 111年前、1913年11月に入植が始まったブラジル最初の永住者向け移住地「桂植民地」を手始めに、レジストロ地方で植民事業を行った「伯剌西爾拓植株式会社」の創立は大きい。
 1908年に笠戸丸を運行させた水野龍の皇国殖民会社は、農業労働者という形でブラジル移住の「狭いけもの道」を切り開いた。それを、日本から投資された資本で永住型の移住地建設という「アスファルト舗装された街道」に変えたのが同拓植会社だ。
 1910年に青柳郁太郎は、農商務大臣大浦兼武ら賛同者の出資を得て東京シンジケートを設立してブラジルに渡り、1912年に4年間で日本人農民2千家族を誘入定住させる契約をサンパウロ州政府と結んだ。その契約を引き継いだのが、桂太郎首相の後援で渋沢栄一を創立委員長として設立された伯剌西爾拓植会社だった。だから最初の定住地の名前を「桂植民地」とした。
 一方、渋沢は今から95年前、「南米拓殖株式会社」の創立に関わった。その南拓が、1929年からアマゾン最大の移住地トメアスーなどの拓殖事業を行った。今もトメアスーは続いており、ここから日本人によるアマゾン開拓が始まると同時に、来年開催されるCOP30で再注目されるといわれる「森林農法」のような自然共存型の農業という知恵が生まれた。
 ただの農業労働者を送り出すのではなく、定住するのに必要な中堅リーダー層育成を目指した「海外植民学校」設立にも支援した。熱心なクリスチャンだった創立者の崎山比佐衛(ひさえ、1875―1941年、高知県)は、戦前の軍国主義に強い影響を受けた日本の満蒙開拓の方向性に疑問を抱き、日本人の平和な海外発展の道は南米以外に無いとの結論に至り、この学校を作り、自らアマゾンに移住した。
 義父がこの学校の卒業生だったパラグァイ在住の故坂本邦雄さんが2019年にニッケイ新聞に寄せた寄稿文(https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/190905-61colonia.html)の一節に、次のような逸話がある。
 《崎山先生は、日本資本主義の父といわれた渋沢栄一子爵にお百度参りをし、学校の建設資金を依頼した。ところが、いつまでも色よい返事がサッパリなかった。しびれを切らした崎山先生は、最後には渋沢翁の禿げ頭を大きな手で押さえ、持ち前の大きな声で聖書を片手にお祈りをしたところ、さすがの翁も折れて、必要資金を出して下されたという〝武勇伝〟の持ち主だ。
 開校後、崎山校長は翁の別荘を、学校の創立記念日には学生達を引連れて挨拶に参上し、渋沢翁の訓話を聞きながら、茶菓子を御馳走になって一同帰って来るのが恒例だったと言う》
 それら組織は無くなっても成果自体は現在も残っている。

1932年当時の柳沢喜四郎一家『ブラジル国イグアッペ植民地創立廿周年記念写真庁』(32頁)

実はブラジルに渋沢栄一の隠し子?!

 以前、ブラジル長野県人会創立35周年『信州人のあゆみ』同刊行委員会、1996年刊行)を読んだ時、次の記述を見つけて驚喜した。《(柳沢)喜四郎の父青淵は、政府の要請によって一九一三年三月に東京で設立されたブラジル拓殖株式会社の創立委員長を務めた人である》(73頁)とあったからだ。
 「青淵」(せいえん)は渋沢の雅号だ。この県人会誌の記述が本当だとすれば、「もしや柳沢喜四郎は渋沢栄一の隠し子ではないのか?」と考えられる。渋沢に多くの隠し子がいたことは有名な話だ。堀江宏樹が月刊誌『プレジデント』オンラインに執筆した記事(https://president.jp/articles/-/56162?page=1)には《渋沢が認知した最後の子は、彼が68歳の時に生まれています。(中略)認知しなかった子を含めると100人ほど子どもがいた…という〝伝説〟の持ち主でもあります》とある。
 渋沢はブラジル移住事業にも情熱をかけていた。ならば隠し子の一人ぐらい、ブラジル移住していてもおかしくないのでは――と以前から思っていた。
 柳沢喜四郎、長野県の農家出身で、名前の通り四男だった。『ブラジル国イグアッペ植民地創立廿周年記念写真庁』(海外興業株式会社、1932年、安中末次郎撮影、32頁)によれば1918年(大正7)年9月の博多丸でブラジル移住した草分けだ。

柳沢嘉司(よしつぐ)ジョアキン(2013年撮影)

 最初はレジストロに入植し、海外興業株式会社(海興、ブラジル拓殖会社の後身)から道を開ける仕事を請け負った後、「桂植民地に移って農協を作る手伝いをしてくれ」と海興から薦められ、1924年に桂へ移ったという人物だ。
 2013年、桂植民地があったイグアッペ市に住む柳沢喜四郎の息子、元市議会議員の柳沢嘉司ジョアキンに問い合わせた際、「お祖父さんの名前は確か春吉じゃないかな。『青淵』? 聞き覚えないね」とあっけなく否定されガッカリした。
 その際、渋沢栄一記念財団の渋沢史料館(東京)にも問い合わせてみたが、「渋沢の子どもの中に喜四郎の名前は確認できない」とのことだった。つまり《喜四郎の父青淵》という記述の裏は取れなかった。とはいえ、「明らかになっていない隠し子」だった可能性もないわけではない。

ブラジルで渋沢の孫が「いとこ同士の対面」?

『南米通信』(渋沢敬三、角川書店、58年)

 連絡を取った渋沢史料館の学芸員からの勧めで、『南米通信』(渋沢敬三、角川書店、58年)を読んでみて再び興奮した。実は、渋沢栄一の孫敬三が1957年9月4日、忙しい日程を割いて、わざわざ桂植民地を訪れていたからだ。2カ月間の南米視察旅行の途中にたち寄った。敬三は第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)を歴任した人物だ。
 なぜ興奮したかと言えば、桂植民地で案内をしたのが当時市会議員だった柳沢ジョアキン本人だったからだ。つまり、もしも柳沢喜四郎が本当に隠し子だったら、敬三とジョアキンは「いとこ同士の対面」だった。その意味で、移民史オタクには実に興味深い組み記述だった。
 敬三は、柳沢家のピンガ蒸溜施設を見た後、《更に上がったところが桂の中心地で小さな公会堂もあり近辺の方々がより集まって紅茶とビスケットで心からの歓迎をして下さりうれしかった。老人連は青淵のことを少しは覚えていたが、その時分から現代までが一足飛びに来てしまった如くその間の歴史は寧ろ無変化の表情で、まったく大正初期の感じをつめ込んだ缶詰をあけたような気がした》(『南米通信』、128頁)との文学的な言い回しで感慨を表現している。
 その日の午後にサンパウロ市まで帰る予定だったが、〝予想外〟に植民地で時間をくってしまい、テコテコ(単発機)の出発に間に合わず、最寄りのイグアッペで一泊することに。敬三は《おかげでイグアッペに泊まれると内心大喜びであった。柳沢さんに案内されホテル・サンパウロに泊まる。全くの田舎宿で興趣がある。柳沢さんを交え四人で夕食を取った後、街の広場でサーカスがかかっていたのでちょっと入って見る。(中略)この間東京で見た映画「道」に出てくるサーカスをもう一段貧弱お淋しくしたものであったが田舎町の情緒にあふれ内容よりそれが面白かった。更に農事試験場に勤めている日本人が柔道の夜間教授をしているのを見にちょっと立ち寄る》(129頁)など予定外の柳沢との親交を堪能したようだ。
 敬三は同著書の総括的所見の中で、南米との関係改善に注力するように提言し《わが国―ラテン・アメリカ間の将来の経済交流の拠点を形成する》《わが国の移民を一層経済的に向上せしめ、わが国―ラテン・アメリカ文化、経済関係の強力な紐帯(じゅうたい)たりうるように育成していく。なお、移民に対してのアフターケアーは機械類のそれより優先すべきである》と書いている。
 敬三の日程を見ると、リオやサンパウロ、ロンドリーナなど大都市中心で、日系関連では東山農場、アサイー移住地、桂移住地ぐらいしか訪問していない。わざわざ柳沢家を訪ね、イグアッペで夕食を共にしたあたり、歴史好きには「もしや、何かあるのでは」と思わせるものがある。

ピンドラーマ会館の壁に掲げられた渋沢翁の額

今でも日系団体会館にある渋沢栄一の書

 渋沢の「痕跡」としては、日系社会のあちこちに書「総親和総努力(皆が仲良く努力し合う) 八十九翁 渋沢栄一書」という落款を捺された額も挙げられる。サンパウロ市近郊モジ・ダス・クルゼス市のピンドラーマ会館、同市の日本語モデル校にもある。南伯農協中央会に飾られていた同額は、先ごろ移民史料館に寄贈された。
 これは印刷だが、当時のものだ。『拓魂永遠に輝く』(モジ五十年祭典委員会、1971年)を紐解くと、ピンドラーマ植民地の額の由来として、修養団主幹の蓮沼門三がこの書を寄贈したとあった。蓮沼門三は24歳で小学校教師の傍ら1906年に社会運動団体「修養団」(本部=東京)を創立した。27歳だった1909(明治42)年6月13日、若き日の蓮沼は支援を求めて渋沢に面会し、修養団の精神を熱烈に説いた。
 まだ青二才だった蓮沼の話に、人生の円熟期を迎えていた70歳の渋沢は共感を覚えた。渋沢は活動進展に期待して支援を申し出て、翌年から終生顧問を務めた。
 すでに雲の上の存在だった渋沢と、一介の小学校教師に過ぎなかった蓮沼は最初、面会すらできなかった。その際に苦労して面会するまでのエピソードが、修養団が日本で発行している機関誌『向上』21年6月1日発行の第1312号にある山崎一紀修養団主幹のコラム《渋沢栄一と蓮沼門三》で次のように紹介されていた。
 《門三が一筆一拝の祈りをもって長さ六間(約十メートル)にも及ぶ手紙を渋沢翁に送ったところ、「ご書面を拝見して、君の熱誠に感じ入った。ついては、この次の日曜日に会うからくるように」という返事をもらったのです》と書かれている。
 『修養団三十年史』(同団編集部編、1936年、65―68頁)には、その時の面会で渋沢が語った言葉が書かれている。
《熱心に傾聴して居られた(渋沢)翁は、やがて口を開かれた。
 『色々と承って修養団の精神がはっきり判りました。悦ばしい団結です。
 自分は予て、算盤と論語とを以て処世の要道として来ました。その何れも欠いても行けない。貴君方の愛と汗は、正しく算盤と論語――経済と道徳――を一致せしめるものです。そしてこれが国家社会を明るくする道です。
 私は貴君方青年に期待する。邦家の為により一層の努力を続けてください。不肖私も力の限り助力さして戴きませう。』
 静かな老男爵の微笑が感激にふるへる主幹を送り出した》
 蓮沼門三の求めに応じて、渋沢はブラジル日系社会向けに「総親和総努力」の書を渡したようだ。蓮沼門三の弟信一は1926年にブラジル移住して修養団の活動を始めた。その息子の芙美雄に聞くと「門三は1952年にブラジル中を8カ月間も歩き回った。その際に書を置いていったものでしょう」とのことだった。それが、今も日系団体の会館には大切に掲げられている。

渋沢は日本移民に南米との架け橋との役割を期待

 渋沢栄一が大事にしてきた論語の一節に「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊(ばんぱく)の邦といえども行われん」というものがある。言い換えれば、移住先国で誠実さや忠誠心を忘れずに生活を送り、敬意をもって現地国人に接すれば、相手国で誰に邪魔されることなく、生活を送っていけるという移住生活の心得とも読める。これは、明らかに金だけ稼いで早く帰るというデカセギ意識とは異なる。息子篤二や孫敬三の名の由来にもなっており、彼が指針としてきた言葉だ。
 ブラジルで日系人は116年を経る中で、良くも悪くも「真面目」「正直」「誠実」「約束励行」などの評判を得てきた。これは明治の渋沢栄一が日本移民に期待していた「日本と南米のかけ橋」としての存在、敬三の言葉では「強力な紐帯(じゅうたい)」という役割そのものではないか。(深、敬称略)

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