村上正朋物語=南米浄土宗イビウーナ日伯寺の土地寄進者《1》=岸本 晟(あきら)※櫻井聡祐(そうゆう)監修

上空から見た南米浄土宗イビウーナ日伯寺の全容(Fonte: 富田リカルド健一Ricardo Keniti Tomita)

1.はじめに

 村上正朋は戦前にブラジル移民として渡伯し、ジャガイモ栽培と種芋生産に奮闘した。そして彼の生前からの希望に従い、伸子夫人が南米浄土宗イビウーナ日伯寺の土地寄進を実現させた。ここに記した文章は村上伸子夫人からの聞き書き(2009年6月10日)を主に、新聞記事、参考文献からまとめた(文中、敬称略)。

2.ブラジル移住の実現

 高知県高岡郡葉山村出身の村上誠基が、ブラジル移住18年後の1938年にブラジルから帰郷した。その目的はブラジルでの自分の生活を見てもらうための両親の出迎えであった。
 以下の記述は『コチア産業組合中央会40年の歩みと現状』55頁よりの引用である。
 村上誠基は1892年6月3日高知県生まれ、長じて高知師範を卒業後、しばらく小学校の先生を務めた。しかし28歳の時、思うところありブラジル移住を決意。1920年の5月、土佐丸でブラジルにやってきた。
 最初、アニュウマスに入り、その後、コチア村といわれたモイーニョ・ベーリョに転住した。この地で1927年にコチア組合が誕生したが、創立組合員83人の第一号が村上誠基であり、180cmの巨漢であった。
 村上誠基は、コチアのイモ作りを企業化した先駆者といわれている。そのやり方は、外部融資を積極的に導入しての大規模栽培であった。
 上級品必ずしも儲からずと、省力で大量のイモを、端境期中心に作るという経済性に立った方法だった。
 今日でも立派に通用する、当時としては全く斬新なものだった。
 この1927年以降、村上農場で働いた青年たちは後に「村上学校」と呼んだように村上誠基と青年達とは連帯感を生んだ。
 村上学校の卒業生が百合(栄一)10年働く、宮地(千年)5年働く、村上正朋10年働く。
 村上誠基は晩年脳溢血で倒れ、数年来病床にあり、1962年に70歳で逝去された。
 その1938年、村上誠基帰省の機に、当時18歳の高橋正朋は、ブラジル移住のために便宜上、村上誠基の弟となり、村上正朋としてブラジルに移住した。当時、独身日本男児がブラジルに移住する唯一の方法が、移住者家族の一員となることであった。
 正朋は10年間、仕事を覚えるためにサンパウロ州イビウーナ市カッピン・アゼード区村上農場で主としてジャガイモ栽培に従事した。
 その間、お金を自身では使った事が無かったという。参考までに高橋正朋の家族の系譜を示す。(表) 

■家族の系譜■

 上記の主な情報は在日中のエミリア・シズカを通じて、山品瑛香(92歳)から2023年12月14日に取得した。

3.伸子さんとの結婚

 ところで、当時の日系社会において、日本人青年が日本人の娘さんと結婚するのは非常に困難であったという事情がある。
 日本人青年の数に比べて同年代の日本人女性の絶対数が不足していたのである。
 このことについて、『移民の歴史』(半田知雄著、1970年発行)の314頁に以下の記述がある。
 《「娘3コント」と噂されたのは、働き盛りの人間を、家族から一人奪われることは、その家族の「成功」を遅らせる原因として恐れられたことを示すものだろう》
 年季奉公が1ヵ年、衣・食事・医療等の生活費主人持ちで、500ミル程度であった時代であるから、3コントとは、1人前の労力を3ヵ年間奪われるに等しいと計算したとも受け取れる。
 実際はどうであったか分からないが、結納金を3コントくらい文句なしに出せる青年のところへなら、娘をやってもいいということになる。
 さて、村上農場で働き始めてから10年後、正朋は独立の機会を得たが、まずは結婚する相手をどうするかという問題に直面した。

 何回か見合いしたが、正朋は酒を良く飲むということで敬遠されたという。
 そんな折に、パラナ州アサイ市から、村上誠基のもとに養鶏実習に来ていた小岸寿利男(当時18歳・ジュリオ)の様子を見に来た彼の父小岸金吾が、畑を耕す正朋を遠目ながらに見初め紹介したのが、姪の小岸伸子である。
 1930年、伸子は三重県伊勢市から、父金平25歳(享年34歳)、母はる28歳、姉ひろこ(3歳)とともに、1歳でブラジルに移住した。 そんな事情の中、正朋は婚約資金として村上誠基から10コントを得た。その10コントを使い、伸子とその母親はるをサンパウロ市―アサイ市間を飛行機で送迎して母はるの信頼を得た。そして1948年に正朋28歳、伸子20歳で結婚した。
 結婚後しばらくは、村上誠基農場にて「お礼奉公」(伸子談)のため留まった。
 その間に同農場の更に15kmほど山奥のムルンドゥ地区に10アルケールの土地を購入し、村上親恵夫人から伸子が結婚祝いにいただいたロバ1頭を従えて転住した。
 正朋と伸子は土地にある原生林の樹木を伐採、木炭を作り資金を調え、手始めに1アルケールのジャガイモを栽培した。
 ムルンドゥは湿気が多く、ガローア(霧雨)がつづき、そのため他の場所より2倍の消毒が必要であり、消毒器を背負ったまま寝てしまった事もある。
 炭焼き小屋に寝泊まりし、小米(割れた米)を食していた。
 そんな或る時、牛ひき肉1kgを正朋が持ち帰り、それでマカロナーダ(ミートソーススパゲッティ)を作り、二人とも動けなくなるほど腹一杯食べて、肥料袋の上にひっくり返って朝まで寝た事は、新婚時代のいい思い出だった。

 ジャガイモを青掘りしてイビウーナ市まで運んだら黒くなって売り物にならなかった事もある。
 ともかくジャガイモ栽培で儲けては少しずつ土地を買い足していった。
ムルンドゥではジャガイモ栽培で雨期に消毒して乾期に出荷して儲けた。
 次女エミリアの生まれた1953年に一番多く植えた。その面積は5アルケールで芋ほり時には人を頼んだ。(つづく)

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