4.両親をブラジルに呼び寄せる
1954年4月には葉山村の正朋の父勤、母小虎をブラジルに船旅で呼寄せた。両親は1年間正朋宅に滞在した。三女イボネの生まれた年である。
5.正朋の家族名を次に記す
当時、イビウーナ市の高知県出身者は皆広い家に住んでいたが、正朋は倹しい家に住んでいた。
6.伸子の母はるを連れて訪日
1960年、正朋は、伸子と伸子の母はると訪日した。船によるブラジルと日本の往復の3ヵ月と日本滞在は5ヵ月。主に高知の父勤の家に滞在した。
その折、正朋は卒業した小学校に多額の寄付をしている。
正朋は、渡伯前、葉山にいる頃、作った野菜を20km離れた須崎の浜へリヤカーに積んで販売に行った事がある。
7.ムルンドゥに家屋建築
1964年、ムルンドゥの土地に、水洗便所完備の大きな家屋を建築・落成した。当時、村上農場では、葉山村出身の7家族、21人の大人、28人の子供をあわせて計49人が同居、1ヵ月に60kg入りの米7袋を消費した。
その落成式に、父勤、母小虎を2度目の訪伯に招待した。
両親は、「正朋がイビウーナの葉山出身者の中で一番大きな家に住むようになった」と喜んだという。
その後、サンタカタリーナ州カノイニャスに在住していた頃に、母小虎に3度目の訪伯をさせている。
8.ジュキチバに移動
正朋は、1964年に、サンパウロ市からクリチーバ街道71km地点にある、平均標高685mの丘陵地帯の町ジュキチバに移動し、ここで6年間ジャガイモを栽培した。ジュキチバは、トゥピ・グアラニー語で「多くの水の土地」という意味である。この地に、ムルンドゥで儲けた金で1500アルケールの土地を購入した。
9.葉山村から呼寄せた人
①1955年、西岡貞夫(コチア青年)
②1957年2月、西岡重輝、妻静枝、3人子供(敏喜、修一、健三)
③1957年6月、林亮一、妻稔子、長女久美子。高橋正大(まさお)(正朋の兄)、妻佐月、長女由美子。佐月の甥の璋男(高橋家の構成家族として)。長男正和と次女加栄(かえ)は祖父と日本に残る。(後に両名とも渡伯)
④1959年9月、矢野忠夫一家6人。川上さだお一家3人
⑤1961年10月、中山善介、妻徳衛、太門、寛蔵、都代。高橋正大の長男正和、次女加栄(かえ)
⑥松沢とおる(ジュキチバのリオボニトで知り合う)
10.サンタカタリーナ州カノイニャス市に移動
正朋は、1970年にサンタカタリーナ州カノイニャス市に移動し、ジャガイモ種芋生産を始める。カノイニャス市には初めに高橋正和、璋男がジャガイモ栽培に行った。
1972―1974年には年に1作の70アルケール(169ha)のジャガイモ種芋栽培を行った。一時は500人の従業員を雇用した。エスカニア社の大型トラック5台、コマツ社のブルドーザー3台を使用した。
伸子もイビウーナ市で初めて女性としてトラックの運転免許を取得し、時にはジャガイモを市場に運んだ。
当時ジャガイモの値段が良く、トラック一台分の売り上げでトラクター一台が買えたという。
1970―1979年まではジャガイモ栽培の景気は良かった。
1980年からは大豆、小麦、トウモロコシ等の栽培に移る。
下記に当時の現地の1972年4月2日のガゼッタ・カノイニャス新聞の記事の日本語訳(機械翻訳を一部校正)を記す。
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アルシデス・シュマカー(Alcides Schumacher)市長がマサトモ・ムラカミ氏の穀物保管倉庫の落成式に出席した。
26日、フェリペ・シムト区にマサトモ・ムラカミ氏の穀物倉庫が竣工した。このイベントには市の主要当局者が出席し、所有者や市長を含む数人の講演者が講演した。
このイベントには1300人を超える人々が出席し、私たちの自治体の農業の主力の一つとなるこの事業の規模にふさわしい豪華な宴会が全員に提供されました。
以下にスピーチを書き起こします
アルシデス市長は、簡単な概要の中で、このプロジェクトに対する政府の満足度を強調しました。
民事、軍事および教会当局、お嬢様、紳士諸君。今日の私の著名なホストであり永遠の友人である村上正朋氏とそのご家族。私たちは、村上正朋氏が所有するこの私有倉庫の竣工という、カノイニャスの経済生活において極めて重要な瞬間を生きています。
ここに私たち全員が集まり、正朋氏と同じ、隠しきれない喜びを分かち合っています。
正朋氏は今日、農産物を保管するための大きな倉庫を完成させた事に、私たちは敬意を表します。
まるで逆説的なのは、正朋氏が私たちに敬意を表していることです。
彼は尊敬されるべき人だ。このような仕草は、彼の特徴である謙虚さに集約されながらも、日々の労苦の中で仕事をしていく彼の驚くべき性格をよく表している。
紳士たる彼は、自分の従業員と一緒に、彼自身、そしてその家族と共に談笑した。
私たちは、近隣のトレス・バラス市にナガノ家とシモギリ家が入植し、その勤勉さと土地への献身的な日本植民地の価値を知っていた。
したがって、私たちは、これら勤勉な農民たちが活躍するトレス・バラス市の優位性をうらやましく思いました。
それからずっと後になって、正朋氏がここに定住するためにやって来ました。彼の甥である高橋璋男氏は現在パルミタールとメジャー・ヴィエイラの地域で裕福な農民であり、その取得した財産の証書はワシントン博士の支援を受けて作成されました。私はこの地区の最初の公証役場にいます。
少し後、正朋氏は別の甥を連れて再び私たちの地域に戻ってきました。
今回は、現在ペイシェンス地方で裕福な農家となっている高橋璋男氏です。
認定種子用のジャガイモ栽培に適したこの土地の素晴らしさを評価し、彼自身もここに定住しました。
村上氏は全国的に成功を収め、サンパウロでうらやましい経済的地位を享受し、ここで私たちの自治体内で全力を尽くして働いています。
紳士諸君…人生は一瞬の連続だ。正朋氏は、立派な男だ!!!
このような瞬間は素晴らしいものであり、発展の有望な展望の中で未来を感じ、偉大な進歩が達成されているという確信を垣間見ることができます。
そして、このような人々の勇気が、利用不可能と思われていた土地を変え、シダや湖をそこにある緑豊かなイメージに変え、それが都市の豊かさを促進し、富をあらゆる商業活動に変えたからこそ、それが達成されているのです。
ここに住んでいた日本人はジャガイモ生産の成功に満足し、作物の多様化を図り、小麦、米、大豆などの他の穀物の作付けに移りました。 そしてカノイニェンセの土地は彼らに委ねられた。
果物の豊富さも同じで、今まで彼らを失望させることはありませんでした。そして、紳士諸君、それを他の人に伝えることは必要です。
勇敢な入植者、ポーランド人、イタリア人、ドイツ人などの子孫、そして特に私たちの勇敢なカボクロ(田舎者)にもです。与えることであなたは受け取るのです。彼ら、日本人は私たちの土地にすべてを捧げました。
寛大で良いもの、土地が必要としていたもの、必要なものすべてを、彼らが誰よりもよく知っている技術的な仕事と組み合わせて、必要な肥料と殺虫剤、そして土地を与え、そしてすべての生き物と同じように復活し、活性化し、期待された果実を生み出しました。
したがって、私たちは皆さんも日本人の奇跡に倣うことをお勧めします。次のルールに従うことをお勧めします。
カノイニャスはオウロ・ヴェルデで再び苦難の瞬間を経験している。
私たちは、当時ラテンアメリカ最大の製材所であった私たちの地域で、マテ茶の黄金サイクルの存在という黄金の瞬間を経験しました。
攻撃的かつ圧倒的な荒廃が起こり、それに伴い草の根の危機が生じました。私たちは何年にもわたって郷愁と不安を抱えて生きています。
私たちが現実に目覚めたのはつい最近のことです。その後、私たちは国立松研究所(現在は I.B.D.F.、Rigesa、Celulose、Papel e Embalagens Ltda)の責任の下、植林に着手しました。およびその他の民間企業は、連邦政府からの税制優遇措置の結果として今日、誇りを持って言えます。
カノイニャス地域は最も重要な地域の一つであるということです。
世界中で再植林された木は、住民一人当たり約1千本の木に相当します。これがカノイニャスの新しいイメージです。私たちは過去の間違いを正し、信じます。
将来の成功のために新しい産業が店舗を設立し、他の産業が施設を拡張しています。
日本人は、誰もが注目するこの素晴らしい絵を持ってやって来ました。
アカレスクおよび農業省、農業事務局のその他の機関は、ここで我が国の内陸部と常に連絡を取っています。
農業において私たちの富を活性化させ、進歩と社会福祉に変える価値を流通させる人々の支援なしには、どの政府も地域社会のために永続的で有益な仕事を遂行することはできません。
したがって、ご出席いただいた皆様に感謝し、私たちは正朋氏とそのご家族の就任式に改めてお祝いの意を表し、ここにいる日本人植民地全体を抱きしめます。皆様にオメデウゴザイマスのお祈りをささげます。皆さん、ありがとうございました。(つづく)