村上正朋物語=南米浄土宗イビウーナ日伯寺の土地寄進者《3》

村上正朋(出典:村上正朋)

 村上正朋は、1992年6月2日早朝、ムルンドゥの農場(60アルケール=145ha)で、トラクター運転中に心臓発作で急逝された。
 言葉を変えて言えば、最後まで立派に農業者として力を尽くしたということであり、本人としても本望だったのではなかろうか。
 享年72歳(合掌)

11.追記

 私、岸本晟(あきら)が村上正朋さんと知り合いになった経緯を記す。
 私は、1976年から1981年までゴヤス州のビアノポリス市(人口5千人)の郊外でタネブラス社の野菜採種農場(500ha)で責任者として働いていた。その農場に1976年の或る午後、日本人が運転する自動車が我家の前に停車した。
 高橋正和と名乗った彼は、サンタカタリーナ州でジャガイモを生産しているが、このゴヤス州にその適地を求めているという。アナポリス市から土道で80km離れたビアノポリスに日本人のやっている農場があると聞きやってきたという。
 彼は、正朋さんの兄の正大さんの長男であった。その後、彼はこのビアノポリスに農場を購入し、妹の加栄さんの婿の緒方良則さんを責任者としてジャガイモ生産を始めた。

村上伸子(出典:エルザ幸)

 私は1981年にサンパウロ市へ転勤となった。私は二人の息子たちを、サンロッケ市にある「丘の家学園」の茅根哲子先生の寄宿舎にお願いしていた。伸子さんがお孫さんをその「丘の家学園」に寄宿をお願いに来ているところでお会いしたのが始まりである。
 その折に、かの高橋正和は、伸子さんのご主人の正朋さんの甥になると聞き驚いた。その伸子さんからイビウーナ市の村上農場に何時でも来たら良いと招待を受けた。
 それからというもの、サンパウロ市に余り知り合いもなかった私達一家は、土曜日になると何時もイビウーナのムルンドゥの大きな家にお邪魔し泊めてもらい、毎週末を過ごすようになった。
 その頃の村上さんは貧乏していて日本語の新聞も買えないとこぼしていた。正朋さんは細々と野菜栽培と小面積のジャガイモ生産をしていた。
 時には私も農作業を手伝った。私の長男カルロスがボツカツ農大に在学中、野菜の実習を正朋農場でお世話になった。
 又、次男ネルソンがアメリカのカルフォルニア州サリーナス市で一年間の花栽培実習生となる為の農業実習としてジャガイモ収穫に暫くお世話になった。
 毎土曜日、日曜日には、昔、正朋さんに世話になった人々が集まり、にぎやかであった。年末になると誰彼ともなく、昔、正朋さんが世話した人々からのご馳走や大きな高級魚の差し入れがあり、賑わった。 

1970年代にカノイニャス新聞に掲載されたジャガイモ収穫機械

 サンタカタリーナ州のレボンレジス市の標高1千mのジャガイモの種芋栽培地のご自宅にも泊めて頂いたことがある。そんなことで正朋さんが亡くなられる日まで約10年間お世話になった。
 その後、伸子さんはお寺に土地と家屋を寄進後、その土地内に住宅が用意されてそこに住むようになった。空いてる部屋があり、私と妻は時々泊めてもらった。
 更に、2002年サンパウロ市ビラ・ソニア区、私の自宅から徒歩10分足らずの近くに四女のエルザさん一家が家を購入し、住まわれるようになった。
 私も時には伸子さんの腰痛と腹痛とかに塩灸やお灸で対応した事もある。エルザさんが伸子さんの老後を世話し、最後を看取った。伸子さんが亡くなられるまで私達と交流が続いた。今もなお、エルザさんやご家族と交流が続いている。
 いみじくも、今年は故村上正朋氏の33回忌であり、伸子さんの願いでもあった村上正朋物語を作成できた。改めて考えてみると、ブラジル日本移民の生き様、毀誉褒貶を体現したのが村上正朋氏であり、ブラジル日本移民とその子孫に残しておくべき貴重な歴史の一部であるとの思いを強くしている。
 故村上正朋氏と伸子さんのご冥福を祈ります(合掌)

12.南米浄土宗イビウーナ日伯寺の土地寄進

 以下の文章は浄土宗総合研究所の教化研究2003(平成15年)p5―12(参考資料:「南米開教区の現状と展望について」佐々木陽明南米開教総監、1996年11月29日記、「イビウーナ日伯寺開基について」佐々木陽明南米開教総監、1997年2月15日記)を引用、要約したものである。
 故村上正朋は高知県高岡郡葉山村(現津野町葉山)の出身で生家は高橋家。
 戦前に単身渡伯する為、呼寄主の村上誠基の弟として村上家に入籍、姓も村上に改姓された。
 しかし本人は苦しい開拓時代より、生家「高橋家」の発展の念が大きく、生前、村上姓より高橋姓に変更すべく努力されたが、法律上許可されなかった。
 而して、村上家の仏壇には高橋家の先祖がまつられている。
 非常に勤勉で正直、純粋で清らかな心の方で、数多くいたブラジル人労働者が高齢になり、働けなくなった後も手厚く援助されるなど、人徳の高い人で、佐々木陽明(総監)もイビウーナ地区の巡回布教の折には必ず村上家に一泊し、その様な縁から土地の寄進の話が重ねられていた。
 イビウーナの自身の農場内で1992年急逝された折、故人の心の中に常に在った故郷高知、生家高橋の「高」と、故人の人徳を慮り、佐々木総監の蓮社号(浄土宗の僧侶に授けられる法号の一つ)「徳」をあわせ「高徳院」という戒名がおくられた。
 故人の出生地である葉山村からは戦前、戦後を通じて約350家族がブラジルに移住し、現在は、それらの子孫が分家等をして推定1500家族がブラジル全土に存在していると言われている。
 葉山村民の大多数は、地元の菩提寺である臨済宗妙心寺派の檀信徒だが、ブラジルには同派が無い為、同村出身移住者の多くは同じ禅宗ということで曹洞宗に属している。しかし、現在ではイビウーナ在住者を中心に浄土宗への改宗が増加しつつある。
 その大きな理由として、以下のことが挙げられる。
 村上正朋は親戚、同村者を数多く呼寄せたが、そのうち、林亮一、高橋正大(実兄)の両家族は、サンパウロ別院日伯寺開山、初代南米開教総監長谷川良信上人(佐々木陽明総監を含む3人の開教使が随伴)とボイスぺン号で56日間の航海を共にし渡伯した同船者であった。
 その様な縁を元に、巡回布教やこどもおてつぎ等、地道な開教を通して前述の村上、林、高橋家の他に、川上家一族、下元家一族(コチア産業組合創立者)、中山家一族、西岡家一族、中久保家等、その他葉山村出身の多くの家族が浄土宗に入信している。
 現在(1997年当時)、同イビウーナ地区の総代世話人の川上勉、川上佳男、林亮一、中山善介、川上公三、西岡健三は、いずれも葉山村の出身である。
 尚、今回の土地の寄進に推進役を務めた林亮一、中山善介、西岡健三はいずれも村上正朋の親戚であり、彼の呼寄せで渡伯し、村上農場で働きながら同農場を発展させ、現在ではイビウーナ郡内でそれぞれ農場を経営しており、イビウーナ在住日系人のリーダーとして活躍している。
 その方達にとっては、村上家のシンボルである大家屋や農場は、そのまま自分達の開拓時代のシンボルでもあり、ブラジル移住の原点である。
 若しイビウーナ日伯寺が開基されれば、大いなる協力支援を約束されている。

村上家より寄進された家屋(804㎡、出典:浄土宗開教振興協会会報『開教』1999 Vol17 p15)

13.1999年当時イビウーナ日伯寺建設の現状報告

 13―1 村上家より寄進された土地14万0790㎡(約2663坪)家屋(804㎡)は、土地の測量が完了し、村上家の弁護士の指導により、(1997年9月)寄付譲渡手続きが、イビウーナ市登記所にて完了する。但し、地権の交付は、村上家の遺産相続が終了後となる由。
 13―2 境界線に柵(鉄条網)を設備(1997年11月)
 13―3 現地の運営委員長に西岡健三を決定。敷地内の道路作り等開始(1998年7月完了)
 13―4 イビウーナ日伯寺開基法要(1998年8月27日)本堂予定地にて地鎮式。
 13―5 村上未亡人用住宅完成、新居に移転(1998年11月)
 13―6 顧問会、総代会、理事会、護持会役員決定(1999年3月15日)(総代長川上公三)
 13―7 具体的な設計案作成開始(中村ミルトン技師に依頼)補足:その後、生出克彦設計士を経て、最終的に竹中工務店(タケナカ・ド・ブラジル)が設計、2002年に着工。

14. イビウーナ日伯寺開基に関する報告

 14―1 建設目的
(a)日系人を対象とする開教活動、サンパウロ州南西地域日系人の念仏信仰の寺として。
(b)サラナ生涯教育センターとしての福祉活動、教化活動、サンパウロ市を含む日系社会全体の老壮者を対象とした福祉活動、青少年の研修、婦人会等の教化活動の場として。 
(c)ブラジル人に対する開教、仏教教育、研修道場、非日系人を対象にしにポルトガル語による仏教伝道のお寺として。
 14―2 建設計画概要
 建築規模 総面積5681㎡(鉄筋コンクリート、煉瓦作り、一部2階建て)
 工期  第1期から第5期まで(第1・2期は2003年5月竣工、その他は未定)
 総工費  599万4千レアル(約230万米ドル)

15. 建設に至るまでの経緯

 村上正朋は高知県の出身で、戦前青年時代にブラジルに移住し、イビウーナ郡モルンドー(正しくはMurundu、ムルンドゥ)区にて大きく農場を経営していたが、1992年6月2日に逝去された。
 生前に、開教総監に対して、農場後継者がいないので、浄土宗南米教団に自宅を含めた土地の一部を寄進、それらを活用してして欲しいとの申し出があった。
 しかし、日伯寺研修センターの建設中であり、資金面、並びに開教使スタッフの問題等があり、寄進受け入れの返事をしなかった。
 村上正朋逝去後、伸子未亡人から寺総代を通じて、今回改めて、遺族一同(1男、4女)の合意として、故人の遺志を尊重して教団に寄進の申し出があった。
 教団理事会、開教使会にてこの件を検討し、現場を視察し、選択集800年記念事業として、将来第3の寺院となる「イビウーナ日伯寺」として開基する事とし、寄進を受け入れることとなり、土地の選定、視察を行った。

村上農場の全景(Brasil Jodo Julho-2000 ANO Ц – No 06の開教総監部の報告「イビウーナ日伯寺に関して総監訪日」)

16.寄進された土地

(a)所在地 サンパウロ州イビウーナ郡ムルンドゥ区村上耕地内(サンパウロ別院日伯寺より西南西へ90㎞地点)
(b)土地面積 4・5アルケーレス(10万8千㎡= 10・8ha)(※のちの測量によると約14万㎡となっており、およそ6アルケールとなる)。その中に804㎡の居住家屋、176㎡の車庫、倉庫あり、但し、屋根替え、その他改装が必要。
(c)立地条件
 イ.村上農場(100アルケーレス⁼240ha)の中心部、家屋を含む。
 ロ.サンパウロ中心よりイビウーナ市迄70km、イビウーナ市より20km地点.
 ハ.土地は平均して幅約200m、奥行約550m、家屋の在る所は前面に小川、池があり、奥の最上地は標高1200mで、イビウーナ郡で最も高い所で、周囲の山々や、雲海が眼下に見え、200度の大パノラマが展望出来る。

17. イビウーナ郡について

 イビウーナ郡はサンパウロ市の約2倍の面積で、近郊西南地帯では最大の郡で、日系人も700家族在住、イビウーナ文化体育協会等の日系団体もある。
 蔬菜、花卉等の産地としては近郊第一と言われており、最近ではサンパウロ市民の別荘地としても発展しており、フェルナンド・エンリッキ現(1997年当時)ブラジル大統領の別荘もあり、釣り掘や貸別荘なども多くある。
 政治的には日系人の強い所で、現在(1997年時)副市長は日系人(村上家縁者、村上誠基農場時代の同僚宮地千年氏の子息である宮地誠之氏)。
 農産物の大量生産、農村電化等、日系人の活躍で発展した郡で、サンパウロ市に比べて治安の良い所である。
 (1998年ごろから、主に日系人を狙った強盗被害、銀行強盗など犯罪が多発。新聞やテレビニュースで頻繁に報道され、全国的に地名が知れ渡るほどであった)
 「イビウーナ」とは、ブラジル先住民の言葉で「黒い土」という意味で、ブラジル独特の赤土が少なく、又、ブラジル海岸山脈の中にあり、起伏に富んだ地形で、日本の農村風景に近い。サンパウロ市、ソロカバ市への水の供給地である大きな湖もあり、自然環境保護と観光に力を入れている、自然に恵まれている郡である。(つづく)

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