小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=9

 平野通訳は鹿児島移民を主とした二十三家族を連れてグァタパラ・コーヒー園へ。鈴木貞次郎もグァタパラに近いサンマルチンニョ・コーヒー園へ鹿児島移民二十七家族の通訳になった。
 最後に仁平通訳が夫人と共に、中部地方出身者十五家族を連れて、ソブラード・コーヒー園へと出発した。

 この十日ほどは日本移民一色に塗りつぶされて所長以下応待に気をつかっていたサンパウロ移民収容所は、再び以前の落ちつきをとりもどした。
 最後の移民列車が奥地へ向って出発した日の午後、疲れ切った数家族のイタリア移民が奥地のコーヒー園から引き揚げて来た。若い人妻も、老人も混っていた。彼等は実に見すぼらしい身なりで汚れていた。
 疲れ切ってものも言えず、ボロ布のように廊下にへたり込んでいる若い異人女の横顔を、自由契約移民で来た為にまだ行先が決まらず収容所に残っていた数人の日本人青年が、不安そうに見守っていた。

第二章

 平野運平と二十三家族、八八名を乗せた汽車は、六月二十八日の午前五時に収容所の引込線を出てパウリスタ鉄道線を走った。
 普通列車の最後尾にグァタパラ駅止まりの専用車がついていた。途中の駅で移民が迷い出ぬように出口には車掌が鍵をかけてしまった。
 サンパウロの郊外でチエテ河の鉄橋を渡る頃に夜が明けると、やがて両側に山が迫ってきた。さして高くはないが険しい傾斜を持った山塊だった。冬のサンパウロは朝夕肌寒いくらいだったが、山間の小駅で人々が窓から首を出すと更に冷たい山の冷気がヒヤリと頬をなでて、吐く息が白いのだった。
 平野運平は窓に頬杖をついて、夜明けのブラジルの自然を眺めていた。サンパウロ市をでるとほとんど人家がない。朝霧の中にどこまでも林や草原が続いていて、人の手が入ったようには見えなかった。移民たちのだれもが口にしたように〈広い国だ〉というのが彼の実感であった。
 彼は静岡県小笠原郡栗本村士族榛葉健吉の次男として生まれたが、叔母方の養子となって平野姓を名乗った。
 東京外語でスペイン語を学んだのは、青年らしいロマンチックな外国への憧れのためであった。明治は進取の気性に富んだ時代だったが、スペイン語科を選ぶ連中は変わり者が多かった。フランス語や英語、ドイツ語のように、それで立身出世できる望みはほとんどないのだった妙なる音楽を演奏するように、異国の情熱的な言葉を自分が流暢に喋れるようになりたい、というだけの夢想家たちの集りだと言えた。

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