《記者コラム》戦時中に迫害された日本移民=「強制退去事件」の謝罪求める=家族にも語れない悲劇のトラウマ

1943年7月9日付オ・エスタード・デ・サンパウロ紙。サントスから強制立ち退きさせられた6500人の一部。サンパウロ移民収容所に着いたところ

スパイ容疑で着の身着のまま汽車に乗せられ

 ブラジルで大戦中に6500人が24時間以内に強制退去させられるなど数々の悲劇が起きていたことはあまり知られていない。地球の反対側で起きた戦争によって、日本移民にも深刻なトラウマがもたらされた。
 この7月25日にブラジル連邦政府の市民権人権省の恩赦(アムネスティ)委員会では、日系コミュニティへの金銭的補償を伴わない集団的賠償の審理が行われる。
 集団的賠償を求めているのは、①終戦翌年1946年に起きた日本の敗戦を認めずに日系社会で起きた「勝ち負け抗争」の際に、1千人以上が警察に大量検挙され、うち172人の大半は何の罪もないのに聖州海岸部のアンシェッタ島に収容されたという事例と、②大戦中の1943年に起きた日本移民6500人のサントス強制立退きと二つの事例だ。申立人は、ブラジル沖縄県人会とこの運動の発起人である奥原マリオ純氏だ。
 今回は後者のサントス事件に関して取材した。1943年前半、ドイツ潜水艦がサントス沖でブラジルやアメリカの商船を沈没させた。ブラジルのゼッツリオ・バルガス独裁政権はサントス沿岸部の枢軸国移民(日本、ドイツ、イタリア)にスパイがいて手助けしたに違いないと判断し、1943年7月8日に24時間以内の強制立退きを命じた。イタリア移民は数が多すぎて立退き不可能とされ、結局、日本移民6500人を中心に100人以上のドイツ移民も退去させられた。
 24時間以内――それまで数十年がかりで築いてきた財産を投げ売り、置き去りにせざるを得なかった。銃を手にした警察官に見張られる中、旅行鞄二つだけを手に汽車に乗せられて、サンパウロ移民収容所に着の身着のままで送られた。
 立退きの通達があった際、夫が出張中や、漁師で海に出ていて離れ離れになり、妻が身重でも警察は容赦なく追い立てたとの証言が、サントス強制退去事件を特集した『群星別冊』(ブラジル沖縄県人移民研究塾、2022年4月刊行)には書かれている。涙なしには読めない1冊だ。立退きのショックに精神障害になった人もおり、多くの被害者は生涯にわたって影響を及ぼすトラウマを残した。
 立退きの際、日本人学校の建物は連邦政府に接収され、戦後はずっと陸軍が使ってきた。いわば強制立退きの象徴ともいえる施設だった。それが地元日系団体に返還されたのは2018年で、強制収容から75年後だった。その返還運動を中心となって進めたサントス日本人会の会長、中井貞夫さん(63歳、3世)に6月8日、それまでの経緯を聞いた。

祖父は一度もサントス事件を語らなかった

中井茂次郎(1902―1989年)

 地元におけるサントス事件への感情を尋ねると、事件から81年を経た今でも集団トラウマといえる状況が続いていることが分かった。連邦政府によってサントス日本人会は戦中に閉鎖された。1952年に復活させたのは初代会長に就任した中井さんの祖父、中井茂次郎(しげじろう)さんだ。1902年に和歌山県串本に生まれ、1919年移住。戦前からサントス日本人会評議員、戦後は漁協組合を創立するなど地元日系人の顔役だった。
 祖父や父が強制立退きの被害者である中井さんに「祖父は強制立退きの経験をどのように語りましたか?」と尋ねると、「祖父は強制立退きについて一度もしゃべらなかった。というか、サントスの日系人は誰もしゃべらなかった」と現地には現在も深いトラウマがあることを暗示した。
 中井さんの横に座っていたサントス沖縄県人会の照屋オズワルド会長(75歳、3世)も「私の父も同じ、しゃべらなかった。映画『オキナワ サントス』(松林要樹監督、2020年)が上映されるまで、誰もしゃべらなかった」とうなずいた。
 なぜかと畳みかけると、「ブラジルは戦後、軍事政権が長い間支配したから、怖くて誰もしゃべれなかった。1946年から63年までは文民政権だったが、当時ですらもブラジル人から日系人は差別を受け、受け入れられていなかった。日本人を告発する風潮が強かった。軍事政権中はその風潮に文句をつけることは難しく、ただひたすら日本人の息子は、職業人として人一倍頑張って認められることを目指した。でないと、まともな市民として扱われなかった。そんな時代だったから、1世たちは強制立退きの経験を語らなかったんだと思う。語ったところで、政権批判にしかならない。それは自分に跳ね返ってくる」と説明した。
 さらに「1世は戦争中の問題に口をつぐんで、ただひたすら2世団体の創立運営を支援した。その流れから2世団体も日本語教育や日本文化を前面に打ち出すような活動はせず、ブラジル人から存在を認められるようなことを目指してきた」という態度であったと説明した。
 終戦直後の勝ち負け抗争で日本移民のイメージが悪くなったことも、それに拍車をかけた。「日本文化を前面に出した活動はしてこなかった。そんな時に、強制立退きの問題を持ち出しても、日本人のイメージをさらに悪くするだけだと思っていた」と振り返る。

サントス日本人会の会長、中井貞夫さん(金星クラブで)

 中井さんは、「父は1937年にサントスで生まれ、6歳で強制立退きにあって、家族と共にサンパウロ州奥地のマリリアやプレジデンテ・プルデンテに移った。父は幼かったから綿の収穫作業が大変だったとか話したが、強制退去のことは言わなかった。父は1947年にサントスに戻ったが、日本語も日本文化も習うことはなかった」という。
 「父だけでなく、強制立退き後に再びサントスに戻った人たちは事件の話を蒸し返すことはなかった。1世たちは常に2世とは別に集まって活動した。例えば祖父は自宅に1世仲間を呼んで、頼母子講や将棋などの寄り合いをよくやっていた。我々は別に金星クラブに集まってフェスタ、サッカーなどのブラジル文化に関わる活動を別にしていた」。
 サントス以外の日系団体は通常、1世を中心にして青年部の2世も一緒に活動している。

「連邦政府が間違いを認めることは大事だ」

 1992年に当時のサントス日本人会会長の上新(かみあらた)さんは日本人学校返還運動の署名を始め、当時の市長らに働きかけた。1994年に連邦下院議員だった伊波興祐(いはこうゆう)さんにお願いし、連邦議会で返還法案を出してもらった。だが提出された法案を実際に議会で審議してもらうには、連邦議員に強く根回しする必要がある。1世会長時代にはそれが難しかった。
 それが動き始めたのは、次の遠藤浩会長が当時金星クラブ会長だった中井さんら2世に政治家への働きかけをお願いした2005年からだ。そこから活動が本格化し、2006年に建物の利用権返還を実現させた。
 中井さんは「遠藤さんは僕らを信用してくれた。当時は軍政時代の見直しを進めていたルーラ大統領が2期目の選挙をするタイミングで、それに乗る形で、ヴァルガス独裁政権の見直しとして政治家に訴えたら動いてくれた」という。軍から連邦政府国有財産局に戻し、ルーラが同管理局から日本人会に利用権を譲渡する形になった。
 中井さんは2008年からサントス市議会議員を12年間務める中で、地権返還法案を連邦議会の審議にかけるために市長や連邦議員に根気よく働きかけた。その結果、1994年に提出された返還法案が、2018年にようやく連邦議会で承認され、建物の地権が日本人会に正式に戻された。

 中井さんは「祖父は日本人学校の返還のことは一度も言わなかった。戦争直後から軍が使っていたし、大戦前には日本人会が解散させられていたから、最初から実現不可能な夢だと口にも出さなかったと思う。でも2003年に反軍政のPT政権になって、サントスで大戦中に起きたことに共感を得られる可能性が生まれた。今もPT政権だから恩赦委員会の審議も同じような政治環境にある」とみている。
 7月の恩赦委員会に関して意見を聞くと、「残念ながら被害者の大半は死んでしまった。そして事件自体が知られていない。でも、だからこそ連邦政府が間違いを認めることはとても大事だ」とうなずいた。(深)

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