特別寄稿=言葉は心の顔=日本語学習に奮闘する外国人就労者=サンパウロ在住 毛利律子

岡山県総社市の備中国分寺(wikimedia commons)

総社市のブラジル人

 岡山県に総社市という人口7万ほどの古い歴史の町がある。そこは、飛鳥・奈良時代には、備中の国府も置かれ、国分寺、国分尼寺も配置され、備中の国の政治・経済・文化の中心地として栄えた。平安時代には備中国内の神々を合祀した総社宮が建てられ、総社市の名称はこれに由来している。高い山は無く、小高い丘はほとんどが古墳である。備中国分寺周辺の広々とした平野は、春にはレンゲの花の絨毯を敷き詰めたようになる。倉敷市を含む一帯は吉備路といい、見どころの多い観光地である。また、日本画家・東山魁夷画伯の祖父が坂出市櫃石島の出身ということから、吉備路の風景が描かれた印象的な透明感のある「東山ブルー」と呼ばれる作品は、吉備路美術館や東山魁夷せとうち美術館で見ることができる。
 この総社市は自動車部品、機械器具製造業、食品製造業が盛んで、1990年ごろから外国人労働者が多く居住しているが、国籍別では東南アジア人、ブラジル人、中国人が多く、総計29カ国の外国人市民が居住している。特に近くの鷲羽山ハイランドでは、ブラジル人のサンバショーがあることなどから、倉敷市や総社市一帯の吉備路観光エリアにはブラジル人就労者が多い。当初は日系一世、二世が短期的に住んでいたが、リーマンショック後は若い世代が急増し、非日系ブラジル人配偶者の飲食店経営などが増加した。
 総社市中心部に、美味しいと評判のブラジル食レストランがある。倉敷在住の私がサンパウロに移住する13年ほど前のことであった。出発前に送別会をブラジル食でと、ちょっと知られたこの店に行った。ドアを開けるとフェイジョアーダの香りが漂っていた。

方言に泣かされる
「早くしねーや=サッサとしなさい」

 とりあえずフェイジョアーダを注文した。店内はまだ客がまばらだったので、在日3年目の若い女性の日系人店員をつかまえ、いくつか質問した。
 「会社と店では頑張って日本語を話すようにしているけれど、家ではポルトガル語だけ。日本語学校に行きたいけれど、お金もないし、時間もない。日本語は難しい。漢字を読むのも、書くのも、とても難しい。そして、ホウゲンが分からないよオ。この前も、お客さんが大きな声で早くしねーや、と大声で怒られたから泣きそうになった。早く死ね、と言われたと思った。あとで、サッサとしなさいという意味だと分かったけれど、びっくりした。怖かった…」と言う。ちょっと乱暴な岡山弁には、他にも、「キョウテー」がある。それは近くの児島競艇場のことではなく、「怖い人」を指す。
 日本語には標準語以外に地域言語の方言が数えられないほどあるのだ。
 ブラジル人や外国人住民にとって職場でも地域方言を習得しなければ、互いの意思の疎通が上手くできない。
 日本は北から南2000キロ以上の長い島国であるため、寒い地域と暑い地域の方言の違いは、気候も影響しているのではないかという説がある。
 東北では、
 ア「どさ=どちらへ」
 イ「ゆさ=風呂ですよ」
 これは寒いから口を開けるのが面倒で短く言う。ズーズー弁だから、という説があるが、言語学上は根拠がない。その土地の方言に慣れ親しむしかないのである。
 ある勉強熱心な若い日系ブラジル人女性が、地元の方言だけの高齢者住民に「日本語で話してください」と言い放って住人との関係がギクシャクした。こういったことも、地元住民とのコミュニケーション問題の引き金となりかねないのである。
 総社市によると、ブラジル人の日本語教室に対する要望は非常に強く、ボランティアで教師をする婦人たちとたびたびもめ事を起こすらしい。それはいったん拗れると、修復が難しくなる。
 日常生活におけるブラジル人住民の日本語使用は極めて限定的であり、ブラジル人社会ではポルトガル語中心の生活であるから、地域住民との関係性は希薄になる。
 地元の住民はプライドが高くて鼻持ちならず、ブラジル人は卑屈になる。ブラジル人の話し言葉能力は日常会話程度、書き言葉能力はひらがな・カタカナ程度、漢字はほぼ読めない、書けない。
 学習意欲は高く、必要性も強く感じているが地域文化に溶け込めない。地域住民も排他的にならず、日系人も怖じけず、市も立ち上げた多文化共生推進のスローガンを実質的に強化し、言葉の壁を低くするといった三者の努力が要る。

オノマトペの効用

 日本国にはオノマトペも多い。日常的に頻繁に使われる。方言にオノマトペを混ぜると、標準語よりズバリ言い得ることがある。しかも説得力が倍増する。関西弁などは実に言い得てナットクの言葉が多い。たとえば、「そんな優しい言い方で相手が分かるか、ガーンとやらなあ、ガーンと!」「チカンは、アカン」などは、標準語の「痴漢は犯罪です」より、ずっと迫力があり、覚えやすい。
 日本では、医療従事者のための、英語、ベトナム、ポルトガル、中国、韓国、タガログ語などに翻訳された「オノマトペシート」を使って症状を尋ねる。ガクガク、ガンガン、ギシギシ、キリキリ、シクシク、キンキン、ゴリゴリ…と言った表現である。医療現場では、これらの表現でトリアージ(治療優先度)が決まることもあるから、日本語教師も注目すべきであろう。
 医療に関するオノマトペ表現などは、日常会話学習の時に習っておくと便利である。

何ちゅうか先生

日本語を教わる外国人(イメージ)

 こちらに来るまで、筆者は岡山周辺の大学で日米比較文化論講座を担当していたが、日本社会は急速な超高齢化社会に向かっており、外国人留学生を受け入れるようになって、2000年ごろから、医療現場で使う医学英語も教えるようになった。
 特に東南アジア系は学費を借金して来ているので、まじめに猛勉強する学生が多かった。彼らは、日本人でも難しい医療の言葉を覚えて資格を取らねばならない。授業はいつも活気があり、発想の違う質問が飛んでくるたびに、ドギマギさせられたものである。
 看護学校などでは、現役の医師や看護師が教師となることもある。普段、語学を教える機会は少ない先生方である。
 ある時、一人の東南アジアの学生が次のような質問をした。
 「センセイ、ある先生が日本語の説明の時になんちゅうかーという言葉を繰り返すのですが…その言葉は説明しにくいということですか?」
 (オット、こちらも、つい、なんちゅうか、と言いたくなるのを抑えつつ、)「日本語はニュアンス、あいまいな表現を何とか言葉にして相手に正確に伝えようといろいろと模索するときに使うのが、なんちゅうかー、ですかね…」と、あいまいに答えてしまうのである。
 すると、学生は物足りない。本格的に勉強に来たのだから、正確に知りたい気持ちで一杯なのである。
 「もっとちゃんと説明してよ!」といった顔つきである。

日本語の「曖昧」表現

 日本語のあいまいな言葉遣いは、しばしば衣服に例えられる。露骨に言うのは相手に自分の裸をさらすのと同じだということだ。相手によって衣服を変えるのは、思いやりという説である。回りくどいと言われても、「一言でいえば、端的に言うと、率直に言うと…」ではデリカシーに欠ける。外交官は世界共通の言葉の作法というべき「外交辞令」で話すというが、日本人は感覚としてそういう言葉を知っている。
 「これは一つの日本の誇るべき伝統的言葉の文化であり、こういった言葉の魔法は知っておいた方が、あなたにとって得ですよ」ということである。

丁寧に言ったつもりですが…

 近年、日本に一時帰国をしてコンビニで接客する店員に、外国人が増えたと痛感する。彼らは非常によく訓練され、きちんとした定員マニュアルの敬語を使いこなしている。レストランでの注文、スーパーマーケットやファストフード店でも同様である。
 そのやり取りの中で、エッと気になる言葉遣いがある。注文したのち、あるいは支払いの際、店員が「以上ですか」という。これは、客が「(自分の買い物は)以上です」というのが正解で、店員が客に向かって「以上ですか?」と確認するのは間違いらしい。そのココロは、「それだけでいいのか。他にもうないのか」ということになるらしい。
 ホテルのフロントで「お荷物、お持ちしますか」の場合。
 これはホテルマンが客に代わって、荷物を持ちましょうか、と聞いている場合のこと。客が荷物を自分で持って行く場合、ホテルマンは、「お荷物、お持ちになりますか」となる。もっと丁寧にすると、「恐れ入りますが、お荷物はご自分でお持ちになっていただけますでしょうか」となる。
 つまり、日本語の場合は、自分と相手、他人とでは原則として、動詞が変化するため、自分と相手に対する動詞の使い分けの言葉をしらなければならない、ということだ。
 例えば、「行きます」「参ります」「食べます」「寝ます」は自分。「いらっしゃいます。おいでになります」、「召し上がる。お休みになる」は相手に対してとなる。

社長に向かって「ご苦労様」とは、これいかに

 出稼ぎの日系人が社長に「ご苦労様です」と挨拶したら、ムッとされた。
 「何が悪いのですか?」
 「イヤイヤ、日本人でもこれは難しいのです。おはようございます、だけで良かったと思いますが…」
 年上の人が掃除をしている。若い者が「ご苦労様でした」と声をかけるより、「ありがとうございました。お手伝いもせずにすみません」と言うほうがいい。
 つまり、特にねぎらいの言葉は、空気を読んで、察して、言葉を選ぶ。なかなかの知能ゲームである、すると、「ああ、日本語は難しい」というが、英語にも、他の言葉にも、そういう状況で使われる言葉はたくさんある。
 「敬語は文化の華である」
 普段から使い慣れるように学習したいものだ。
 他にも、「ご」と「お」の使い分けなど、日本語には気を付けたい規則がある。

言語は耳で覚え「らしく」話す

 ある日、作家の田辺聖子さんの夫、カモカのおっちゃんが、「セゾン・ド・ノンノ」という女性雑誌を買ってくるように頼まれた。ところがおっちゃんはその名前を忘れてしまった。そこで本屋の店員に「ドドンドドンド、下さい。」というと、店員はすぐ出してきたという。言語学者にすれば、これは言語学的見地から非常に興味深い点が二つ含まれているらしい。
 つまり、おっちゃんは本の名前は忘れたが、「ドドンドドンド」の音の連続は覚えていたということ。そして、それを聞いた本屋が、この音は、この雑誌の題名だということを直感して、言い当てた推測能力だという。
 この話は、赤ちゃんが言葉を覚えるときに、母親の声色を聞き分け、周りの人々の発する言葉を掴まえて繰り返すことによって覚えていくように、外国語を学ぶには、正確に話すことへのこだわりより、「らしく」話す発想の転換を教えている。

ジョン万次郎(wikimedia commons)

 江戸末期に単身アメリカに渡って英語を習得した漁師、ジョン万次郎の「ホッタイモイジルナ」(What time is it now?何時ですか)という有名な話がある。
 カメンサイ(Come inside,おはいりなさい)
 ごーへー(go ahead、進め)
 などを「マドロス英語」「車夫英語」と言ってバカにするのではない。言葉は耳を澄まして、「エレガントなごまかし方」をするのが、「らしい言葉を話すことになる」とは、言語学者の力説である。
 筆者もこちらでの生活10余年を経たにもかかわらず、いまだに下手な発音、イントネーション、意味不明な言葉を使って恥ずかしい限りである。にもかかわらず、ブラジル人はそういう私の言葉を笑ったり、バカにしたりしない。それどころが、じっと忍耐強く最後まで聞いて、たぶんこの人はこういうことが言いたいのだと予測してくれる。これが北米の東部あたりだと、公衆の面前で発音を何度も言い直させることがある。「アメリカを大嫌いになった」という声をしばしば聴くたびに、ブラジル人の気立ての良さに感心させられ、「らしく」話せるように努力しているところである。

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