とめどなく涙があふれる瞬間
「なんで自分はこんなに泣いているんだろう」と不思議に思いながら、取材中にあふれてきた涙をワイシャツのそでで何度も拭った。ほとんど布が乾く間もなかった。1992年に邦字紙記者を始めたが、こんな経験は初めてだった。
きっとサントス強制退去事件で追い出された6500人の先人、なんの罪もなくアンシェッタ島に収監されて拷問を受けた人達、戦争中に人種差別によって被害を受けた邦人の魂がこの会場に降りてきて無言の圧力を発し、じっと謝罪の一言を待っているからではないか―そんな気がした。
謝罪請求運動は今後「新しい次元に」
「皆さん、今日は本当に歴史的な日であります。ブラジル政府は日本移民に対して謝罪を決定しました。今日は忘れることのできない歴史的な日になりました」――25日、首都ブラジリアの人権市民権省の恩赦委員会で、大戦に関わる日本移民迫害に関する連邦政府の謝罪を決定した直後、ブラジル沖縄県人移民研究塾『群星』編集長の宮城あきらさんは壇上で「謝罪決定」の紙を持ち、そう噛みしめるように語った。まさにその通りだと思った。
これによって「一つの運動が完結した」もしくは「終わった」というより、不思議なことに「新しい次元に移った」「パンドラの箱が開いた」という感触を感じている。
というのも、大戦に関わる日本移民迫害に関する連邦政府の謝罪を人権市民権省の恩赦委員会が25日に決定する一連の流れの中で、「映画『オキナワ サントス』が上映されてから、自分の身近な親戚が実はサントス事件の被害者だったと語り始めた」とか「戦中戦後、小学校で同級生に『キンタ・コルーナ(スパイ)』といじめられていた」などという声が次々に上がり始めているからだ。
今まで「言うべきではない」「言ってはいけない」と思ってフタをしていた遠い過去の辛いトラウマを、今なら直視しても良いんだと思い直す機運が起き始めている感じがする。きちんとした歴史を残すという意味では、とても重要なことだ。
「夫はきっと天国でカチャーシー踊っています」
23日晩、沖縄県人会会館前を出発したブラジリア行きの中で、高良律正会長自ら司会して、車中の58人一人一人に恩赦委員会に臨む心情を語らせた。被害者の佐久間ロベルトさんの妻千枝子さん(82歳、2世)は「夫は3年前に亡くなったが、彼の夢は実現した。彼は7歳の時にサントス事件に遭い、以来ずっとその記憶に苦しんできた。警察がきて強制退去が告げられ、周りの住民が寄ってきてあらゆる持ち物が目の前で平然と盗まれ、追い出された。彼はその経験を生涯、決して忘れることはなかった。その時彼の母は臨月で、父が警察に『生まれるまで待ってくれないか』と交渉したが、『24時間以内に立ち退かないと逮捕する』と脅され、わずかな手荷物だけ持って泣く泣く退去した。夫はその経験をいろいろな人に語ろうとしたが、誰もその事実を知らず、事件の重大さを理解せず、とても悲しんでいた。松林監督がそのエピソードを取材にきて撮影してくれた時、本当に感謝していた。映画に出れて本当に喜んでいた。あの映画ができ、あちこちで上映会が行われたから、これだけ理解が広まった。夫は今日来ることはできなかったが、きっと満足しているでしょう。ロベルトの魂はいまきっとカチャーシーを踊っていると思う」と涙ながらに語った。聞く側も、涙なしには聞けなかった。
この佐久間ロベルトさんのエピソードは、本人が映画『オキナワ サントス』(松林要樹監督、2020年)内で語っている。アマゾン・プライム・ビデオなどで視聴可だ(2)。ブラジル沖縄県人移民研究塾『群星』(宮城あきら編集長)はサントス事件の特集号別冊を発行しており、そこにも佐久間さんの証言は書かれている。
サントス強制立退き事件を初めて扱った同映画で証言した被害者本人のうち、8人がすでに亡くなった。まるで映画で語るのを待ってから、あの世に旅立ったかのようなタイミングだ。また一人、もう一人と亡くなるにつれ、松林監督の双肩には「必ず映画を完成させて」という無言の圧力がかかっていたに違いない。
実際、当日の会場には亡くなった本人の子孫が多く姿を現し、天国にいる本人に代わって壇上で皆の代弁をする奥原マリオ純さん、島袋栄喜さん、比嘉玉城アナマリアさん、宮城あきらさんを後押ししていた。
「実は身近なところに被害者がいてビックリ」
父儀間カメが第1回移民船笠戸丸で渡伯した儀間マリオさん(80歳、2世、サンパウロ州サントアンドレ市在住)は「サントス事件のことは、僕らは『群星』で初めて知った。佐久間ロベルトはボクのゲートボール仲間だった。10年ぐらい一緒にプレイしていたのに、知らなかった。私には彼は語らなかったが、『群星』が出た後、『私もあの時、あそこにいた』と語り始めて、衝撃の体験に驚いた。身近な人が被害者だったと知り、驚くと同時に、深い悲しみに襲われた」としみじみ語った。
「2005年にゲートボールを始めるまで、僕はポルトガル語しかしゃべらなかった。そこで皆がウチナーグチや日本語をしゃべっていたし、いつか沖縄を尋ねたいという夢があったから、一生懸命にウチナーグチを覚え始めた。毎日、そこで使う言葉を一つ、二つ紙に書いて覚え、自宅に持ち帰ってノートにまとめて書き写した。2011年の世界ウチナーンチュ大会の折に念願の沖縄訪問を果たし、親戚を尋ねると、『どうしてそんなにウチナーグチが上手なのか』と驚かれた。沖縄では年寄りしかウチナーグチを使わないと聞き、悲しくなった。その時、沖縄でゲートボール大会にも参加した。他にもアルゼンチン、ボリビア、アメリカ、ペルーからの県系人と一緒にプレーした時、最初僕は英語が分からないから会話に困った。その挙句、ウチナーグチをしゃべったら、全員が分かったので、とても嬉しくなった。国籍は違っても、僕たちはみなウチナーンチュだと確認できた」と嬉しそうに体験談を述べた。
超強力な若者ネットワークが運動を後押し
バスツアー参加者の一人、沖縄系コミュニティやアジア系女性移民やその子孫に関する研究をするサンパウロ大学の文化人類学者、比嘉美和ライスさん(37歳、3世)に、なぜ沖縄県人会が主体となって謝罪請求運動をやったのかと尋ねると、「最初は沖縄系コミュニティの研究をしていたが、範囲を広げようとアジア系LGBT運動や人種差別の活動家を調べ始めたら、なぜか沖縄系子孫ばかりだった。ブラジル社会に訴える社会活動をする素地が、沖縄系には元々ある」と分析した。
「ここ15年ぐらいでそこにネットやSNSの発展で拍車がかかって、若者の中に社会運動に加わる機運が高まっていた。そこにこの謝罪請求が入ってきたから、一気に彼らがそれを拡散した」とみている。今回もグローボTV局女優ブルーナ・アイソ(Bruna Aiiso)さんが1カ月ほど前から県人会へこの件をブラジル社会に広める協力を申し出ていた(3)。
アイソさんがリーダーをするアーチスト仲間64人のネットワークは強力だ。一定の方向性を持つ意見をそれぞれのインスタグラムやティックトックで共有することにより、ブラジル一般社会に対する強力な発信力を持つ。例えばアナ・チヨ(インスタのフォロアー180万人、ティックトック180万人)、アナ・ヒカリ(同110万人、140万人)という具合だ。今回の恩赦委員会の件は、そこが全面的にバックアップした。
実際、恩赦委員会の冒頭の開会式でアレシャンドレ・パジーリャ大統領府渉外室長官は「ブルーナから1カ月半前に『恩赦委員会にぜひ出席を』と電話があり、決断した」と自ら語っていた。それぐらい影響力がある。ブルーナ本人は沖縄系ではないが、同ネットワークには沖縄系もかなり含まれており、これもまた「沖縄ネットワークの延長」ともいえる強力さを示す。
「ブラジルは沖縄の伝統をリスペクトすべき」
恩赦委員会の最後で三線を引いた4人の一人、ブラジル人のクリスチャン・プロエンサさん(31歳、南麻州カンポ・グランデ在住)は、「我々は民主主義国家に生きており、移民は新しい夢を求めてこの国にやってきた。だが沖縄移民は日本でもブラジルでも苦しんできた。18年間、沖縄県系人と関わる中で、オジーやオバーからそんな話をたくさん聞いた。今回謝罪となったことに幸せを感じる。たくさんの子孫がこの件に関して口を閉ざしてきたし、謝罪のこともまだ知らない。私も映画『オキナワ サントス』で初めて知った。あんなことが2度と起きないようにするには、皆が広く知ることだと思う」と感慨深げに述べた。
彼は2006年からカンポ・グランデ市の沖縄県人会で出入りするようになり、三線を大城繁信さん、島田房文さんらに教わり、野村流古典音楽協会に非日系人として初めて会員に認められ、2022年には沖縄のテレビ局に取材され、同年に沖縄民間大使に就任。翌23年には野村流古典音楽協会で非日系人として初めて教師資格を認められた。
クリスチャンさんは「ボクが三線を習い始めた頃、カンポ・グランデで演奏者の大半は1世で10人以上いた。今は半分ぐらいになってしまった。ボクも三線教師となり、沖縄の伝統を伝える側になった。ブラジルという国は沖縄の記憶や伝統をリスペクトしなければならない。そのためにも、この謝罪はとても大切なこと」と述べた。
「沖縄系以外の県人会でも映画上映を」
沖縄系以外の子孫の参加も多数みられ、その代表として参加したブラジル日本都道府県人会連合会の谷口ジョゼ会長は首都からの帰りのバスで、「我々の先祖に対するスパイ容疑の汚名は80年がかりで晴らされ、いま正義が行われた。全ての日系コミュニティは今回の件を誇りの思っていい」と今回の運動を賞賛した。
さらに「私はあの映画を2回見た。6500人の強制退去者の6割は沖縄県人でも、4割はそれ以外の県人だった。だが他県の会館であの映画が上映されたとは聞かない。もっと多くの県人会で上映されてもいいと思う」と薦めた。
飛行機で来て恩赦委員会に出席した中島リジアさん(62歳、2世)の祖父、塩谷実さんは戦前から印刷所を経営して日本語出版物を発行していた関係で、大戦中に何カ月も警察に拘留された。「おじいさんは大戦中、チラデンテス刑務所に留置されたと、母から聞きました。祖母が子供を連れて何度か見舞いに行っていました。今まではあまりこの件を私の子供に話してきませんでしたが、恩赦委員会が謝罪したことで、これからは子や孫にも話しできるようになった。世界には不穏な空気が漂っています。万が一また戦争になった時、同じことが二度と起きないように、もし日本に何かあってまたブラジルに移住者が来るようになっても、きちんと受け入れができるように、私たちは子孫に伝える義務があると思います」と述べた。
リジアさんは、宮村秀光さんが主催するポ語日本史講座の生徒(4)で、ブラジル日系文学の会員でもある。
一つ気懸りなのでは、アンシェッタ島しかり、終戦直後の勝ち負け抗争の文献を紐解くたびに思うのは「終戦直後の同胞社会は、或る意味、現代にとても似ている」ということだ。社会が二極化して相手方を悪魔化し、フェイクニュースが瞬時に飛び交う風潮がそっくりだ。トランプ銃撃事件は勝ち負けテロを彷彿とさせる。
「魂が洗われた」経験
首都からの帰りのバスで一言ずつ感想をマイクでしゃべった際、多くの参加者から「恩赦委員会の最中に涙を流していた」との証言が語られ、一様に「魂が洗われた(Alma Lavada)」と表現していた。この言葉は、まさに記者が感じていた感情を的確に表現している。
謝罪により日系社会が長年抱えてきた集団的トラウマの一部が癒された感じがする。改めて、謝罪請求運動を始めた奥原マリオ純さん、強力なパートナーとして後押しした沖縄県人会の皆さんに心から感謝したい。
1世や2世が抱えてきた80年前の精神的なトラウマを、新しい3世や4世の世代が客観的に見て現代史に書き加えることで、ブラジル社会全体の記憶として定着化させ、戦争に関わる間違いを二度と起こさせない「社会的な記憶定着」という運動にこれから向かう気がする。その意味で、ずっと密着取材・撮影していた松林監督の次回作は、それを広く定着させる役割があるかもしれない。
あの時、会場に降りてきていた先人たちの魂も洗われ、喜んで天に戻っていっただろうと夢想した。今後、BIGENの「島人ぬ宝」(当日の「島人ぬ宝」の演奏)を聞くたびに、あの時の感情が蘇りそうだ。(深)