特別寄稿=「天声人語」荒垣秀雄氏の娘から=終戦時のブラジル絡みの思い出届く

宮坂国人氏の思い出

宮崎満佐恵

 宮坂国人氏は生涯の恩人です。初めてそのお名前を知ったのは終戦から一年過ぎた頃です。ある日、朝日新聞社の父(荒垣秀雄)宛に夢のようなプレゼントが届きました。その送り主が宮坂氏だったのです。3キロもあるグラニュー糖の大袋! 真っ赤な美しいブリキの大缶にはその味を初めて知ったコーヒー!暖かそうな蘇芳色とグリーンの毛糸が一ポンドずつ!(敗戦の冬は特別に寒かった)
 家族全員で見知らぬサンタさんにお礼状を書くことになりました。当時14歳の私はただありがとうの礼状ではあまりに素っ気なく失礼だと思ったので当時の日本の社会情勢を詳しくお知らせすればこのプレゼントがどんなに有り難かったかが伝わると思って書きました。
 メーデーのニュースでは「朕はたらふく食っている、汝臣民飢えて死ね」と書かれたプラカードが。また実の息子が老齢の親を放逐し「路上で餓死した男の胃袋に一粒の米もなし」。歌舞伎俳優片岡仁左衛門一家殺害事件。これは片岡家の居候が食い物のことで差別されたと怒り、一家全員を皆殺しにした事件……(小学五年生の頃父の本棚にあった箕作元八の「フランス大革命史」を拾い読みしたとき、飢餓は王をギロチンにかける怒りであることを知り、慄いた記憶があります)
 その後二度も三度も継続してプレゼントを頂戴することになろうとは。二度目には私個人宛に丁重なお手紙を頂戴しました。
 「嬢ちゃんの手紙を読んで旧友荒垣一家が無事であることに安堵した。小生の送ったグラニュー糖がかくも多くの人にお福分けされていたとは。赤ん坊や幼い子供までが餓死しているとは知らなかった。故国の様子が今当地では一切伝わらないので今後もどしどし教えてほしい」と。
 (当時在ブラジル邦人が祖国を熱愛するあまり日本敗戦を信ずるか信じないか、いわゆる「勝ち組」「負け組」に分かれて流血の惨事が起こっていたことも知りませんでした)
 宮坂氏からは有り難いお言葉を次々と頂戴しました。「あなたの正しく美しい日本語は日系ブラジル人の日本語の教科書に採用したい。老生は若き日海外雄飛の野望を抱きましたが妻の理解は得られませんでした。やむなく妻を内地に残したまま別居は想定外の長きに及びました。その老妻からの便りを待つよりも嬢ちゃんからの手紙を鶴のように首を長くして待っております。老生は嬢ちゃんの『あしながおじさん』を志願します。懐の続く限り小包を送ります・・・」
 短大二年生の時、宮坂氏は何十年ぶりかで帰国され、「あの嬢ちゃんに会いたい」と父を通じてお申し出があり、まだ焼け跡生々しき新橋で生まれて初めての上等な鰹の藁焼きをご馳走になりました。時は初鰹の五月でした。手間のかかった下拵えに見事な包丁さばき。翌年私は婦人雑誌社に就職し、料理担当記者になりましたがこのときの贅沢な経験がとても役に立ちました。
 「幾別春」氏(宮坂氏の俳号)に触発されて父も俳句をひねるようになった。東京への望郷の思いを俳号「冬虚」に託し。42歳の若さで「天声人語」担当を拝命、異例の17年の長きにわたり自然への柔らかなまなざしが好評、声なき民の呟きの代弁者でありました。
 宮坂氏は日本の文化を熱愛し、正しく美しい日本語を教えるために日系2世3世のための日本語学校の運営にも長く尽力されました。私の在籍した婦人雑誌社でも、一年後輩の婦人記者が宮坂氏の学校で三年ほど教師をしていたと知りました。ブラジル邦人のかたがたの句作を拝見して日本文化への愛着もひとしおなのだと驚嘆しました。
 かくも長きにわたって愛の御手を差し伸べてくださった恩人宮坂国人氏に紙上を借りて限りなき敬意と御礼を申し上げる次第です。

元朝日新聞リオデジャネイロ支局長 荒垣秀雄 次女
 宮崎満佐恵 92歳
  2024年7月

1948年11月に創刊された『木陰』第1号の目次

1948年11月に創刊された『木陰』第1号の目次

 1948年11月に創刊された『木陰』第1号に掲載された、南米銀行創始者・宮坂国人氏(1889―1977年、長野県出身、俳号・幾別春)による興味深い投稿を、本紙3月12日付海岸山脈コラム(https://www.brasilnippou.com/2024/240312-column.html)で紹介したところ編集部宛に6月中旬、日本から問合わせのメールが入った。
 同コラムで紹介したのは、次のような逸話だ。日米開戦の半年前、朝日新聞の特派員荒垣秀雄氏は、宮坂氏に誘われて初俳句を作りに句会に参加した。開戦直後、1942年1月にブラジルが枢軸国3国と外交断絶を宣言したため、外交官や特派員らはリオ湾内のフローレス島の外国人移民収容所を獄舎にして抑留された。
 宮坂氏は慰問品として書籍を届けようとするが、日独伊のものは不可だった。タイムやライフなどの英字雑誌なら良いとのこと。一計を案じた宮坂氏は、雑誌の所々のページの或る行、或る字の上に赤点を打った。その字を次々に書いて行けばローマ字綴の俳句になる「暗号もどきの綴字俳句」を編み出し、荒垣氏に届けたというものだった。
 同特派員は2カ月余り後、交換船で帰朝。終戦直後の1945年11月に論説委員となり、同紙名物コラム「天声人語」を17年半にわたって担当したことで有名だ。
 そのエピソードを紹介したところ、なんと荒垣秀雄氏の孫から『木陰』第1号に掲載された宮坂氏のコラムを読みたいとのメールが本紙に届いた。そこで第1号の紙面を写真に撮って送ったところ、荒垣秀雄氏の娘・宮崎満佐恵さんが元気にしておられ、宮坂国人氏との思い出話をしていると分かり、ぜひ一筆お願いしたいと依頼したところ、快く以下のような寄稿が届いたので、ここに紹介する(本紙編集部)。

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