《記者コラム》〝影の立役者〟松林要樹監督=政府謝罪に導いた重要な映画=ブラジル近代史の一隅を照らす

謝罪請求で大きな役割を果たした映画

松林要樹監督

 7月25日、戦中戦後の日本移民迫害に関して連邦政府が正式に謝罪した。これは、日本移民史だけでなく、日本近代史においても、ブラジル近代史においても大きな出来事だった。
 通常なら翌26日に開幕するパリ五輪の華やかな開会式のニュースで埋もれてしまいそうな中、ブラジル側でもグローボニュース、ヴェージャ、バンデイランテスTV局、SBT局などを始め、日本側でも読売新聞が夕刊一面トップで扱ったことに加え、朝日新聞も連載で報じてくれ、大きな反響を生んだことは記憶に新しい。
 その中で今回、大きな役割を果たしたわりに、〝影の立役者〟となってしまったのが松林要樹監督(45歳、福岡県出身)=沖縄県西原町在住=ではないかと思う。1943年7月にサントス沿岸部の日本移民6500人が24時間以内に強制退去させられた事件を描いたドキュメンタリー映画『オキナワ サントス』(2021年、https://okinawa-santos.jp/)の監督だ。

現地に凄まじい衝撃を与えたドキュメンタリー

映画『オキナワ サントス』のポスター(https://okinawa-santos.jp/)

 実際、この映画が沖縄系コミュニティやサントス住民に与えた衝撃にはすさまじいものがあった。6500人もの日本移民が抱えていた民族的なトラウマ、誰もそれまで語れなかった事実を掘り起こしたからだ。
 例えば、祖父や父が強制立退きの被害者であるサントス日本人会会長の中井貞夫さん(63歳、3世)に6月、「祖父は強制立退きの経験をどのように語りましたか?」と尋ねると、「祖父は強制立退きについて一度もしゃべらなかった。というか、サントスの日系人は誰もしゃべらなかった」とし、現地には現在も深いトラウマがあると答えた。
 その際、サントス沖縄県人会の照屋オズワルド会長(75歳、3世)にも尋ねたが、「私の父も同じ、しゃべらなかった。映画『オキナワ サントス』が上映されるまで、誰もしゃべらなかった」と二人は顔を見合わせてうなずいた。
 映画内で証言をしている被害者の一人・佐久間ロベルトさんの妻千枝子さん(82歳、2世)は恩赦委員会に参加するツアーバスの中で、「夫は3年前に亡くなったが、彼の夢は実現した。彼は7歳の時にサントス事件に遭い、以来ずっとその記憶に苦しんできた。警察がきて強制退去が告げられ、周りの住民が寄ってきてあらゆる持ち物が目の前で平然と盗まれ、追い出された。彼はその経験を生涯、決して忘れることはなかった。その時彼の母は臨月で、父が警察に『生まれるまで待ってくれないか』と交渉したが、『24時間以内に立ち退かないと逮捕する』と脅され、わずかな手荷物だけ持って泣く泣く退去した。夫はその経験をいろいろな人に語ろうとしたが、誰もその事実を知らず、事件の重大さを理解せず、とても悲しんでいた。松林監督がそのエピソードを取材にきて撮影してくれた時、本当に感謝していた。映画に出れて本当に喜んでいた。あの映画ができ、あちこちで上映会が行われたから、これだけ理解が広まった。夫は今日来ることはできなかったが、きっと満足しているでしょう。(謝罪請求が実現して)ロベルトの魂はいまきっとカチャーシーを踊っていると思う」と涙ながらに語っていた。バスの車中、皆がそれを聞きながら目に涙を浮かべていた。
 このように現地国で衝撃を与え、感謝される日本映画が他にどれだけあるだろうか。

「興行成績は最低」日本での散々な評価

恩赦委員会を撮影する松林監督

 とはいえ、2021年8月にこの映画が日本で劇場公開された当初、評価は散々だったようだ。パンデミックと東京五輪という最悪のタイミングだったこともあり、上映館ではガラガラ――。松林監督自身も「今までの映画の中で一番興行成績が悪い」と認める。
 バルガス独裁政権が大戦中にどのような過酷な弾圧政策を枢軸国移民に行ってきたか、日本の日本人はまったく知らない。その点、当地の日系人は家族の話や歴史的な予備知識が元々あり、そのような説明がなくても、すんなりと映画で描かれた事象に感情移入できたのだろう。
 県人会が監督にブラジルでの上映許可をもらってポルトガル語字幕を付け、本部会館での上映会を皮切りに8カ所、そして今年はブラジル日本文化福祉協会大講堂を順繰りに巡回して上映会を行い、いずれも数百人から1千人の会員が詰めかけるなど異例の注目を集めた。「自分たちの隠された歴史を描いた映画」として口コミで噂が広まっている。

謝罪請求運動を支えた三つの媒体

 この謝罪請求運動を推し進める上で、決定的な役割を果たした媒体が三つあると思う。
 約20人ものサントス強制立退き被害者を探し出して証言を掲載したブラジル沖縄県人移民研究塾の機関紙『郡星』(宮城あきら編集長)、奥原マリオ純監督(49歳、3世)が終戦直後に監獄島アンシェタに収監された勝ち組の話をまとめたドキュメンタリー映画『闇の一日』(2012年、https://www.youtube.com/watch?v=kbaehRBjQ98)、松林監督の『オキナワ サントス』だ。
 今回の運動は奥原マリオ純さんが一匹狼のように始めたが、ブラジル沖縄県人会が加わってから圧倒的なパワーで後押しをした。だが、県人会会員がこの運動を熱烈に支援する動機を生んだのは『郡星』に掲載された証言と、証言者の生の声を映像でみごとに表現した松林監督の映画だった。
 これらが揃ってこそ、初めてなしと遂げられた偉業だ。どの一つが欠けても不可能だった。これは内部にいた人の誰もが認めることだ。

送別会で乾杯する様子、左手前が高良会長、右が宮城あきらさん

高良県人会会長「映画なければ謝罪もなかった」

 恩赦委員会のすぐ後、29日夕方、沖縄県人会有志20人ほどが集まって松林監督の送別会が、サンパウロ市近郊のサントアンドレ市の沖縄県人が経営するバールで開かれ、皆がヒージャー汁(山羊汁)で謝罪請求の成功を祝い、松林監督に感謝を表した。恩赦員会の様子を撮影するために、松林監督は7月初めにブラジル訪問し、8月6日に沖縄に帰る。

 松林監督はこの作品の撮影を2015年から初め、それが縁で2017年から奥さんと共に西原町に移住し、そこで子供も二人生まれた。
 映画撮影の際、監督を証言者の家まで車を運転して連れていき、通訳までしていた協力者である島袋栄喜元県人会長(73歳、沖縄県出身)は、「あの映画のDVDは参考資料として恩赦委員会にも送りました。この運動を県人会としてやることを決議する際、反対する人もいました。でも映画を見て意見を変えてくれ、すごい応援してくれるようになり、今回も恩赦委員会に一緒に参加してくれました。6500人のうちの6割が沖縄県人となれば、ほとんどの人の親戚に被害者がいるという状態です。でも、あの映画のために被害者宅で撮影をしている最中、どんどん周りに家族や親戚が集まってきて、『どうして今までその話をしなかったんだ』という光景があちこちでありました」との撮影秘話を打ち明けた。
 高良律正沖縄県人会会長(69歳、3世)も「80年間、1世は強制立退きのつらい経験を子供にも語れなかった。でもこの映画がキッカケとなって家族に語り始め、団結することができた。この映画がなければ政府謝罪もなかった」と断言する。
 宮城あきらさん(86歳、沖縄県出身)は、「2016年8月、松林監督がサントス日本人会会館で、強制立退き者の585家族の名簿を見つけたことが全ての起点です。それを見て初めて6割が沖縄県系人であることが分かった。誰もこの歴史を知らなかった。歴史の闇に埋もれていた。そこから『群星』の証言者探しがはじまりました。この運動のキッカケを作ってくれたのです。彼はカメラを回し、私たちはペンで広めました」と感謝を述べた。
 送別会で挨拶を述べる人から「松林さんは沖縄に移住して子供が2人も生まれた。我々ブラジル日系人からしたら、彼も立派なウチナーンチュだ」との言葉が何度も聞かれた。

送別会で挨拶する松林監督

原一男監督「歴史の闇に埋もれた事件を良く掘り起こした」

 日本で『オキナワ サントス』が初公開された21年8月、松林さんの師匠・原一男監督が同映画に関するコメント(https://www.youtube.com/watch?v=f7ovphEuRSg)を残している。『ゆきゆきて、神軍』(1987年)や『全身小説家』(1994年)など〝怪作〟ドキュメンタリー映画の監督だ。
 いわく《歴史の闇に埋もれた事件を良く掘り起こしたことを、もっとマスコミがきちんと評価して、書いてくれないと、作り手としてはせっかく作ったのに、なんかがっくり来るじゃんね。がっくりきているであろう松林の想いは、私も共有できる。今まで俺たちが作った映画もきちっと評価されているとは思わない。でも、それが日本の現実だからね。これがヒットしないのは、作り手の責任じゃないよ、まったく》と映画の作り手としての共感がこもったエールを送っていた。

 松林監督に取材していて「商業的なドキュメンタリー作品の依頼がいくつかあったけど、みんな断りました。他の人でも撮れそうだなと思ったら断ります」という言葉が印象に残った。
 一番影響を受けた人物を聞くと「中村哲」の名を挙げた。パキスタンとアフガニスタンで30年にわたり患者、貧者、弱者のための医療や開拓や生活向上の支援活動を続けてきた。2003年からアフガニスタンで日本の江戸時代の技術を生かした用水路を作ったことでも有名な人物だが、2019年12月に武装組織に銃撃を受けて、惜しくも亡くなった。

中村哲医師追悼特別サイト「一隅を照らす」のトップページ(西日本新聞社)

 松林監督は「2004~5年頃、この人の仕事を映像に残したいと思って現地に行きましたが、すでに撮影している人たちがいたので、カメラは回さずに3カ月ぐらいただ話を聞いていました。その時、『誰もが行きたがらないところに行き、やりたがらないことをやる』という彼の哲学に感動しました。『一隅を照らす』とも。だから、それまで誰もやらなかったサントス事件をやろうとおもったんです」と撮影を始めた動機を説明した。
 松林監督は、誰も行きたがらなかったブラジルにきて、誰もやりたがらなかったサントス事件を取材し、現地の人たちの心を大きく揺さぶった。このスタイルが彼らしいのだ。(深)

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