牧之段一家は三人で一袋しか摘めなかった。明日から段々馴れたとしても、とうてい移民会社が日本で宣伝したように一日一人四~五袋とれるとは思えなかった。
今朝出て来たときは寒かったが、期待にあふれていた夕方になって、晴れた夜空が青い水のように冷気を空一面にはりめぐり始めたとき、没した日光の輝きと共に希望までが消えたような感じだった。皆、黙りこくっていたが不満が湧いていた。しかし、それ以上に空腹だった人々は家へ入った。やっと飯ができ、食い終ると、待ちかねたように睡気が襲ってきた。
……十日、二十日とまたたくうちに日が過ぎた。そしてコーヒー園労働に対する移民たちの幻滅と不満は決定的となった。
コーヒーが不作だろうが、収穫期の半ばだろうが、彼等には関係のないことだった。とにかく金にならないのだ。
その上、毎週農場から前貸しされる一人十五ミルの金券(バーレ)で、農場内の売店で買物をしていると、ごくごく切り詰めた食糧品しか買わなくても赤字になることがはっきりした。
朝薄暗いうちから日没まで、ドレイのように働いて、そのうえ借金ができる……そんなバカな話があるか! 第一、人々は食い詰めてブラジルに来たのではなかった。よりよい生活を送ろうと思って千万長者になるつもりで来たのである。巡査の月給がたった十円の時代に、一人百六十円もの渡航費を払い込んでいる。四、五人の家族なら、支度の費用を加えると千円程度の資金をかけているのだった。それなのに借金ができる。頭に来て、怒り狂うのが当然である。人々の間に険悪な空気がみなぎった。
昼休みになると、梯子の上に乗って、
「オーイ、家長、集まれ!」
と叫ぶ男がいる。
船中で鹿児島県代表だった西だった。
運平が近くにいても、西はもう平気だった。若輩の通訳など無視し、叩きつぶそうという敵慨心をむきだしにしていた。
ゾロゾロと家長たちが集まってくると、畝の間の土の上にそれぞれ腰をおろして相談が始まった。初めのうちは不満や不平のこぼし合いだったが、日ならずして幾つかの要求を農場側へ突きつけて団体交渉をしようとするはっきりとした目的を持つ会議になった。
運平は除け者にされた。通訳は移民をだました会社側の人間と見られた。