ブラジル被爆者平和協会の創立者で元会長の森田隆さんが12日午前5時55分、サンパウロ市内のサンタクルス病院で老衰のため亡くなった。100歳の誕生日を3月2日に祝ったばかりだった。13日午前10時から、聖市内のプレナ葬儀場で告別式が行われ、遺体は午後3時から葬儀が行われたコンゴニアス墓地に埋葬された。
1924(大正13)年3月2日、広島県佐伯郡砂谷村生まれ。1945(昭和20)年8月1日に陸軍憲兵中国憲兵隊司令部に配属され、広島に赴任して8月6日午前8時、21歳で被爆した。1956年にブラジル移住。1984年にブラジル被爆者平和協会を設立し、自身の被爆体験を基にブラジル各地や南米各国で講演を行い、核廃絶への思いを訴え続けてきた。
広島県医師会が当地で被爆者の健康相談できるよう働きかけ、在外被爆者への健康管理手当の支給を求める活動を率い、当地の若者らにポ語で被爆体験を証言する活動をした。自身の被爆体験を『ブラジル・南米被爆者の歩み あの日がすぎて、巡りくる日々とともに』(2001年、編・著:森田隆・森田綾子)として出版。
「核兵器禁止条約」の実現を求める署名活動など長きに渡る平和活動への取り組みが評価され、2015年6月に聖市議会より名誉市民章を受章した。それら功績を広めるため、2019年2月には聖州名誉功労賞が州議会で授与され、同年にサントアマロ聖州立工業学校(ETEC)に「タカシ・モリタ校」との呼び名が付けられた。同被爆者平和協会は20年末に解散し、現在の任意団体「在ブラジル原爆被爆者の会」に変わった。
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森田さんは自伝の中で、被爆体験を次のように語っている。
1945(昭和20)年8月1日、陸軍憲兵中国憲兵隊司令部に配属され、広島に赴任。8月6日午前8時、警戒警報が解除され、己斐(こい)山腹の防空壕を仕上げるため、南という憲兵と11人の補助憲兵を率いて猫屋町(ねこやちょう)にあった憲兵司令部を出発。一行は隊列を整えて横川の電車橋を渡り、西に向かっておりました。時刻は午前8時15分頃でした。
突然、見たこともない猛烈な閃光を感じたかと思うと、4、5メートルほど前方に吹き飛ばされ、路上にうつ伏せ状になりました。背後より強烈な熱線で首の後部を焼かれたように感じ、次の瞬間には、遥か前方に見えていた学校らしき建物が、まるでマッチ箱を潰したようにしてグァーっと音を立てるようにして崩れました。辺りは一面、灰色に薄暗くなった中、私は首の後ろにひりひりと痛みを感じつつ、大声で「皆、どうだ」と叫び、引率してきた兵士たちの安否を確認しました。
「集合」と号令をかけると、薄暗い中、5、6名の兵士が集まってきました。残りの者については把握できませんでしたが、やむを得ず、己斐山腹に向かいました。200メートルくらい進んだ地点で、倒壊した民家の庭で、老婆が、家の中に嫁と孫が埋まっているので助けてくださいと叫んでいたので、私たち一同は、瓦礫の中へ入って行って、二人を救出しました。
それからしばらく歩いた所で、集まっていた住民らと合流しました。一人の男性は私の方へよろよろと歩み寄ってきたところで、ばったり倒れてしまいました。よく見るとその男性は全裸で、全身に火傷を負い、皮膚が垂れ下がっていました。
ちょうどその頃、敵機の爆音が続く空から、ポツリポツリと大粒の黒い雨が舞い落ちて来ました。雨粒は、まさに重油のようであり、米軍機のB29が空からガソリンを撒き散らし、火をつけて日本を火の海にしようとしているのだと思いました。現に、辺りにいた人の中には、「アメリカは我々を焼き殺すつもりだ」と叫んでいる人もいました。