パラグアイ唯一の和牛農場訪ねて=「カバーニャH」林英二郎さん=取材:大浦智子

和牛農場「カバーニャH」の前で林さんご夫妻

 今年4月初め、サンパウロ市在住の日本人女性から「ブラジルヤクルト商工株式会社の精肉直売が終了してとても残念」と惜しむ声を聞いた。ヤクルト農場で誕生した和牛の受精卵は、時を経ずしてパラグアイにも渡り、その一つがイグアス移住地の大森農牧株式会社(CAOSA)の牧場だった。そこから現在同国唯一の和牛農場「カバーニャH」につながり、新しい展開を迎えている。現地を取材してみた。(取材=大浦智子)

和牛、米国からブラジル、そしてパラグアイへ

 実際、ヤクルト社は「今後も精肉直売を続けるのであれば新たな設備投資も必要であり、ヤクルトは世界的にも乳酸菌飲料のブランドとしての認知度が高く、牛肉との親和性は高くないと考えた戦略的な要因」と説明した上で、ブラジルにおいて和牛振興を長く担ってきたのが同社であるという事実を踏まえ、和牛振興そのものは継続しようと成体牛の飼育は継続している。
 ブラジルの和牛は、1990年代初めに当時の同社副社長でブラジル和牛生産者協会の創設者・現名誉会長の飯崎貞雄さん(82)が、米国の農場から純粋種の和牛の受精卵を導入したのが始まりだ。飯崎さんによると、ブラガンサ・パウリスタのヤクルト農場で一頭目が誕生した後、各地の農場で在来種との交配も進められ、1998年頃から外部の食肉加工工場で委託屠畜・精肉カット加工して直売を開始した。ブラジルには人口よりも多い2億頭以上の牛がいる中で、2022年にはブラジル全土の農場で約1万7千頭が記録された(純粋種は全体の約38%)。

「カバーニャH」の牛舎内
「カバーニャH」の牛舎内

 ブラジルのヤクルト農場で誕生した和牛の受精卵は、時を経ずしてパラグアイにも渡った。その一つがイグアス移住地の大森農牧株式会社(CAOSA)の牧場だ。同社は湘南観光開発株式会社の進出により1974年に設立され、2003年に撤退した。
 だが、1976年から大森農牧の幹部スタッフとして同地で牧場開発に従事してきたのが、現在パラグアイで唯一の和牛農場「カバーニャH(Cabanã〝H〟)」を経営する林英二郎さん(70、名古屋出身、A&E社社長)だ。湘南観光開発が撤退する際、飼っていた4400頭の牛から和牛に関連する約1千頭の牛を引き継ぎ、パラグアイのバレンスエラで個人農場を始めた。それは林さんの少年時代からの夢でもあった。

3カ月での帰国を嘆願した最初のパラグアイ生活

 林さんはパラグアイで暮らし始めて今年で48年。2017年にはニッチな和牛生産の成功者としてパラグアイのビジネス・経済誌『FOCO』の表紙を飾るまでに至り、これまでパラグアイ日本商工会議所の会頭も二期務めたが、最初にパラグアイの空港に降り立った時のことを「失敗の始まりだった」と冗談交じりに振り返って笑う。
 林さんは中学一年生の時、母親の実家の岐阜羽島を流れる長良川の河川敷に乳牛が放牧されている風景に憧れ、牛飼いになろうと決めた。高校2年の時、会社を経営していた父親が亡くなり、母親に負担をかけないために北海道の酪農学園短期大学2部に進学し、夏は牧場で働き、冬は外の作業がない時に学校へ行く学生生活を過ごした。

2017年にパラグアイのビジネス・経済誌『FOCO』の表紙を飾る林さん
2017年にパラグアイのビジネス・経済誌『FOCO』の表紙を飾る林さん

 卒業後はオーストラリアに行きたかったが、パラグアイで牧場をやるという会社からの話があり就職。オーストラリアやニュージーランド、ハワイの牧場を見ていたのでパラグアイも同じような外国だろうと思って来てみた。
 ところが空港は簡素なレンガ積みの建物、職場は原始林の中に建てた3m×4mの作業小屋。電気も何もなく、夜は満天の星空と野生動物の鳴き声が聞こえるだけで、便利な日本の生活から一転した。「3カ月で帰国させてほしい」と本社に手紙を送ったが、「高いコストをかけたのだから1年は我慢しろ」と、1年後にようやく帰国許可が下りた。
 二度とパラグアイに来ることはないと思っていたが、結局帰国の7カ月後にはイグアス移住地に戻った。不安もあったが、土地の開発は着々と進み、牧場の形が出来上がってくると仕事に没頭するようになった。(続く)

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