《記者コラム》「どうしておじいちゃんはブラジルで生まれたの?」=日本人大学院生が地球の反対側へ墓参り=100年後に5世代目がグローバルな親戚交流

母「あら、ブラジルには親戚がいるわよ」

編集部を訪れた吉田洋輝さん

 折しも日本ではお盆で墓参りのシーズンであり、世界中で国籍やルーツの多様性が叫ばれる中、日本人大学院生が高祖父のお墓参りのために、わざわざ地球の反対側まで来るという興味深いエピソードが見られた。
 「おじいさんが日本に帰国しなかったら、ボクはブラジルで生まれていたかも」――東北大学で生命科学を専攻する大学院生の吉田洋輝さん(ひろき、24歳、東京出身)が帰国当日の7月23日に編集部を訪れ、しみじみそう語った。
 吉田さんの母方の祖父・吉田作雄さんはブラジルで生まれ、開戦前に日本に戻った。「おじいさんはボクが17歳の頃に亡くなりました。彼がブラジル生まれなのは知っていましたが、そのことを突き詰めて意識したことがありませんでした。だから、ブラジル時代の話は聞いたことがないです」とのこと。「彼は日本人ぽいというか、とてもパワーがあり普段は頑固でしたが、今思えば時々見せるユーモアがラテン系だったのかも」と思い出す。
 吉田さんは高祖父(曾祖父母の父)・肥田甚七さん(じんしち)の墓参りと親族交流のため、7月15日に開催されたサンパウロ州アルバレス・マッシャード(以後、マッシャードと略)の招魂祭(1)を訪れ、日本人墓地で線香をあげてきたという。

アルバレス・マッシャードの日本人墓地では、毎年招魂祭の夕方にロウソクが点されている

 第1回移民船「笠戸丸」からわずか10年後の1918年、サンパウロ市から西に590キロも離れたアルバレス・マッシャードに最初の日本人集団地の一つ、ブレジョン植民地が建設された。翌1919年に日本移民4人が立て続けに亡くなったのを受けて、日本人墓地も作られた。以来、大戦中とパンデミック期間以外は、招魂祭が毎年欠かさず開催されて今年104回を迎え、ブラジル日系社会最古の行事となっている。
 洋輝さんは、たまたま研究仲間がリオにいるので会いに行こうと思い、「『近々ブラジルへ行くよ』と母親に伝えたら、『あら、親戚がいるわ。どうせ行くなら会ってみたら』と言われて驚きました」とのこと。その際、「母からブラジル側の親戚の連絡先を教えてもらい、その親戚に尋ねてみたら招魂祭というイベントがあり、その時に親戚が集まるという話聞き、その日程に合わせてブラジル入りの便を変更しました。今さらながら、どうしておじいさんがブラジルで生まれたのか不思議に思うようになり、どんな家族の歴史があったのかが知りたくて今回来ました」と説明。実際7月8日からブラジル入りした。

現地の親戚と共に日本人墓地で高祖父の墓参りをした洋輝さん

大戦勃発の雲行きを感じて開戦直前に帰国

 吉田洋輝さんの高祖父である肥田甚七さんは、東京外語大卒で移民監督助手として単身渡伯して1924年にマッシャードに入植した肥田善衛さんの父だ。善衛さんは言葉に堪能なこともあって薬局を開業して安定した生活を送っていた。
 そんな息子の様子を見に、日本から甚七さんら両親は、長男を連れた娘夫婦と共に1929年にマッシャードへやってきた。翌30年に甚七さんは現地で亡くなり、日本人墓地に埋葬された。甚七さんの妻と娘の吉田夫婦はその後もマッシャードで生活を続け、そこで長女、次男である作雄さんと三男が生まれ、開戦前に7人一緒に日本に帰国したのだということが今回分かった。
 ブラジル側の肥田家親戚に問い合わせたら、甚七の妻と吉田夫婦と4人の子供(3男1女)の7人は、1938年に帰国したとのこと。その一人が洋輝さんの祖父だ。さらに「善衛さんの東京外語時代の親友がサンパウロ総領事館で勤務していたので、戦争勃発の危機が高まっていた欧州から日本人が帰国している情報を得ていたと思います」とも教えてくれた。
 欧州では1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め入り、その2日後にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告して、第2次世界大戦が開始された。このような欧州大戦の成り行きを善衛さんは知っていたようだ。

親戚との交流会で。前列右から3人目が肥田ミルトンさん、4人目が文子さん

100年目に5世代目が墓参り来伯

 善衛さんの息子の一人が、サンパウロ州立パウリスタ総合大学眼科教授の肥田ミルトン正人さん(まさと、86歳、2世)で、妻が文子さんだ。1977年から慶応義塾大学医学部・国際医学研究会(IMA)の医学部生よるブラジル訪問の調整官としても活動し、現在は4人の息子が後を継いでおり、日伯医学交流の最前線を支えている。
 招魂祭の時にはプレジデンテ・プルデンテの親戚宅には十数人の親戚が集まっていたという。洋輝さんは、「英語とか、携帯の翻訳アプリでなんとか話をしました。ボクと同年代の親戚もいたが、日本語をしゃべれる人がほとんどいなかった。おじいさんが帰国しなかったら、ボクもそうなっていたかもと思った」と語った。「でも、日本では親戚関係が弱くなっているが、こちらでは距離が近いというか、温かさを感じた」としみじみ語った。
 ミルトンさんの妻文子さん(あやこ、76歳、長野県出身)によれば、「夫の姉妹も私達も、洋輝の曽祖父母、祖父母がブラジルで暮らしていた時から食べており、今も私達が日常食しているフェイジョアーダやスパゲッティなどを、洋輝と一緒に食べながら話をしました。みんなが『ご先祖さまが一緒にいるみたい』という気持ちを感じていました。洋輝がいる東北大学大学院の先生が普通ではできない2カ月の休暇を許可した事は驚きました。若者にこのような機会を与えるのはすばらしい指導者だと思いました」と述べた。
 一方、ミルトンさんに洋輝さんの印象を尋ねると、「若いのに、自分の予定を急に変えてよくきたなあ。旅の途中、決まった計画、空路のチケットも決定してあったのに知らない町に行く飛行機のチケットの変更など、簡単ではなかっただろうに」と前置きして、「1924年に肥田善衛が移住してから、今年でちょうど100年目。甚七から数えて5世代目が洋輝になる。洋輝はブラジルにいる5世代目の16人のうちの5人に今回会うことができた。この100年の間に肥田家は広がり、5世代目の6人は米国在住になっている。肥田甚七夫妻の冒険心のDNAは、世代を超えて確かに洋輝の中にも受け継がれているようだ」としみじみ語った。
 文子さんも「日本とブラジルで次世代の若者達に御先祖様からの何かが伝わったのでしょうか? よくよく考えると、なんだかすごい偶然というか必然というか」と感じているという。
 洋輝さんは招魂祭で日本人墓地を訪れた時、「地球の反対側に日本人が眠っている場所があるというだけで、なんか感慨深いものがありました。まして自分の高祖父なので、なおさらです。招魂祭の慰霊法要で和尚さんが、『招魂祭では生きている人が眠っている人の魂を呼ぶのではなく、眠っている魂が生きている人を呼ぶ』と法話をされていた。ああ、だからボクはご先祖さまに呼ばれてきたのかも、と不思議に納得しました」と語った。
 今年は日本移民116周年で、来年は日伯外交関係樹立130周年――。日伯関係の長さと緊密さ、人的交流の奥行きの深さを感じさせるエピソードでは。(深)

(1)ブラジル日報2023年7月25日付《記者コラム》103回も続く伝統の招魂祭=世代交代する日系最古の行事》
https://www.brasilnippou.com/2023/230725-column.html

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