《特別寄稿》投下79年目に読み返したい原爆文学=米国日系作家ヒサエ・ヤマモト=サンパウロ市在住 毛利律子

強制収容所内で執筆活動を始めたヒサエ

ロス邦字紙「羅府新報」サイト2011年11月1日付追悼記事の一部

 ヒサエ・ヤマモト(1921~2011、享年89歳)は日系二世で、米国ロサンゼルス郊外のレドンド・ビーチに生まれ、89歳で亡くなるまで多くの短編を出版している。熊本県出身の両親は、南カリフォルニアでトマトやイチゴの栽培に従事していた。実際、1920年代の終わりには、南カリフォルニアの農業生産のうち、イチゴ栽培の約94%が日本人移民によるものであった。1913年外国人土地法を受け、日系人は、白人の土地を数年借りて、農地から農地へと転々とする生活を繰り返していた。
 第2次大戦が勃発した後、1942年に他の日系人家族とともに、アリゾナ州ポストン(Poston)の収容所に収容された。当時20歳だったヤスエは、収容所の機関紙である『ポストン・クロニクル』に記事を書き始めたことをきっかけに執筆を始める。
 当然ながら、収容所内では戦時転住局がアメリカに批判的な記事を厳しく検閲している中での投稿であった。収容所生活は1942年から45年まで続いた。未成年の19歳の弟は、第442連隊戦闘団に志願し、イタリアで戦死した。この第442連隊戦闘団は、母国であるアメリカへの忠誠を証明するために、収容所において日系二世らにより編成された部隊であった。
 ヤスエは、太平洋戦争後、羅府新報、加州毎日新聞などに、短編小説、エッセイ、詩など、第2次世界大戦後まもないアメリカが抱えていた内外の問題を一千語強の小さな短編にして精力的に寄稿したが、人種偏見がどのような事態につながり得るかを考え、あらゆる面で差別や制限を受けることの無いように、作家個人の心情を率直に吐露することは無かった。

日系アメリカ人強制収容の背景

 アジアからの北米移民は19世紀半ばに、最初の移民集団として中国人の一団が太平洋を渡って以来、日本、朝鮮、フィリピンなど、次々とアメリカ社会へ参入したが、当初から、アジア系は一様に差別や偏見と闘うことになる。日系移民が法的に許可されたのは、サンフランシスコの中国系より40年ほど遅い1880年代である。
 アジア系に対しては、既に中国人が1882年の排華移民法により排斥されていた。その後、日系一世たちが大挙してサンフランシスコに渡り、アメリカ西部には、白人支配者階級とアジア出身者の安い労働力との間の確固とした人種ヒエラルキーが確立されていた。
 初期の日本人移民のほとんどは男性だったため、「写真花嫁」見合い、まさに写真一枚だけで結婚した花嫁たちが集団的に渡米した。この「写真結婚」はアメリカ人の目には個人の意思や感情を無視した後進国日本の野蛮な習慣と映った。それは、移民制限の網の目を潜り抜けて、新たに多数の女性移民をアメリカに送り込む結果となったため、アメリカの移民排斥論者たちの反感を買うこととなった。
 そして、1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃の後、1942年2月19日、ルーズベルト大統領が発令した法、(西海岸に居住する日本人を祖先に持つ者は収容所に送る)命令により、日系人の強制立ち退きが始まった。
 この命令にはドイツ人・イタリア人が含まれていたが、実際に強制収容所に送られたのは日系人のみであった。これは、ドイツ人・イタリア人が白人であることも関係しているが、アメリカ社会に占める彼等移民の数の割合が大きく、これらの人々抜きにしては、地域社会が正常に機能しないという理由に拠るものであった。
 ルーズベルト大統領は、約12万人の日系人をアメリカ内陸部の砂漠や山岳地方の十カ所の収容所に強制収容した。それは1942年から1949年まで実施された。「ロサンゼルス タイムス」紙は、「日本人の両親から生まれたものは、成長して日本人になるのであって、アメリカ人にはならない」という記事を載せた。

約40年後の正式謝罪と賠償

 終戦後、収容所に送られた日系人は、その記憶を語ることは日本人の恥であり不名誉であると捉え、長く沈黙して語らなかった。
 理由のひとつには、1950年代当時、共和党員マッカーシー旋風の反共産主義にもとづく政治活動としての「赤狩り」があらゆる社会で猛威をふるい、冷戦期でもあったことから、戦争時に日系人が受けた事実を語れる状況ではなかったのである。日系移民の家族史を問うようになったのは日系三世の時代になってからである。
 それは、アメリカ国内の多様なマイノリティ集団が権利拡張を推進し始めた1960―70年代であった。三世たちは、強制収容によって失われた資産に対する補償運動を始め、当時のロナルド・レーガン大統領は、1988年に賠償法案に署名し、正式に謝罪。収容された日系人に対して一人当たり2万ドルの賠償金が1990年から支払われるようになった。

原爆小説『黒い雨』への関心

広島に投下された原爆のキノコ雲。下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。エノラ・ゲイ乗員のジョージ・R・キャロン軍曹撮影(George R. Caron, Public domain, via Wikimedia Commons)

 ヒサエは、1951年ごろから日本人作家の多くの原爆小説に強い関心を寄せ、それを暗に抗議する形で作品を発表、ジャーナルへの連続記事を投稿した。彼女が特に圧倒された原爆小説は『黒い雨』であった。
 井伏鱒二の『黒い雨』(1965年出版)は、被爆者・重松静馬の『重松日記』と被爆軍医・岩竹博の『岩竹手記』を基にした作品であり、主人公の名前も重松静馬の名を基にしている。その中で「黒い粘り気のある、万年筆ぐらいな太さの棒のような雨」が空から降ってきた、と書いた。この小説を以て、「黒い雨」という言葉が世に知られるようになるのである。国が「黒い雨降雨地域」を含めた「原爆症」を認定したのは、戦後60年経過してからであった。
 「黒い雨」とは何か。それは何時、どのような状況で降ったのか。
 人類史上初めて使用された原子爆弾の火災嵐によって約3千~4千度の熱線に見舞われた市街地は、爆風と放射線とともに、その地域のほとんどの人々が即死した。そして30分後には黒い雨が降り始めた。
 それは高温の火の玉が急激に膨張し、それに吸い込まれるように地上の土や水分が上昇しキノコ雲を形作る。地上を焼き尽くす灼熱によって上昇気流はさらに勢いづき巨大な積乱雲を作り出した。やがて、その雲は風下に流され、雨を降らせた。それこそ「史上空前の人工の黒い雨」であった。
 それは大量の放射性物質を含む。高温の硝煙(火薬の発火によって生じる煙)によって巻き上げられた粉塵が混じっているため、黒い雨となって降り注ぐ。炎から逃れる人々の上に黒い粘り気のある雨が降る。人々はその雨に打たれながら、乾いたノドを潤すため黒い雨水を飲んだのである。

エノラ・ゲイ乗組員。左からフィーヤビー、ティベッツ、ヴァン・カーク、ルイス(User:W.wolny, Public domain, via Wikimedia Commons)

原爆を落とした元兵士の涙と、無言で彼の懺悔を聞く父親

 ヒサエ・ヤマモトは、短編[The Streaming tears]で、父親がラスベガスの街中で出会った4人の男たちとの物語の四番目に、原爆を投下した白人パイロット登場させた。この男は、B―29爆撃機の元パイロットである。彼は、ヒロシマに原爆投下をしたことを、強い自責の念をもって父に告白する。ヒサエ・ヤマモトは、作中の兵士に次のように語らせる。
 「自分は原爆で多くの人々を殺してしまったが、それは仕方がないことだった。僕が彼らを殺さなかったら、彼らが僕を殺していただろう。僕か彼らか、どっちかだ」と言い訳をしながら、涙を流す。
 戦後、世界最強の国になった1950年代のアメリカでは、原爆を投下した彼は英雄であった。しかし、実際に発射ボタンを押した事実は自分の記憶から消すことはできない。生涯この罪を背負うのだ。
 そんな彼が偶然にも年老いた日系人に出会い、未知の原爆投下で日本人を大量殺戮した罪の深さを、涙を流して語りつつも、それが戦時下では、やむを得なかったという自己弁護の言い訳をする。
 元兵士が涙を流して嘆くのを目の当たりにして、その告白を無言で聞く父。この静かなエピソードは何を物語るのか。
 ここにいる父は、いまだ敵国民というレッテルを貼られ、この戦争において、アメリカ日系一世は、アメリカ人か日本人かの二者択一に迫られた。一方を選ぶということは他方を捨てるということを意味し、双方を持つという選択肢は、事実上なかった。軍事力を誇示する国家社会で生きている日系人は、この国家で、いわれのない差別を受けながらも、そこに血縁者がいて生活し、おそらく日本に帰ることなく、アメリカに骨を埋めるであろう。
 この場面が静かに語られることによって、両者の立場の違いと深い悲しみ、葛藤が如実に浮かび上がってくる。
 さて、2019年に実施された原爆投下の是非を問う調査結果がある。それは、アメリカ本国のみならず、ヨーロッパの国民を対象にしたものである。戦争の早期終結を成し遂げ、多くのアメリカ人の命を救い、同盟国の兵士と、日本人の命をも救うことになった、という解釈は大多数に支持されており、数十万の命を奪ったアメリカ政府の非を追求する声は少ない。

背中全体に火傷を負った人物(Onuka, Masami (尾糠政美), Public domain, via Wikimedia Commons)

「原爆の疫病」(これは文学ではなく、一ジャーナリストの記事)

 ロンドンのデイリー・エキスプレス特派員であったウィルフレッド・バーチェット記者は被爆直後の昭和20(1945)年9月に原爆都市となった広島に入った最初の連合軍記者であり、「原爆の疫病」はその現状を書いた貴重な記事のタイトルである。(https://hiroshimaforpeace.com/hiroshimakenshi-nomorehiroshima/
 記事の中では次のように記述されている。(記事の一部のみ記載)
     ★
 突然、そして恐ろしいことに、我々は戦争を終わらせるか、あるいは我々すべてを滅ぼす機械を発明したという事実を知った。そこで、私は、「毎日、約百人の割合で」患者が死亡しているのを目にした。
 爆心地に近い所では、何千とあったはずの死者の痕跡がない。消失したのだ。広島市、および医師団の説では、原子力の熱度(3千~4千度)があまりにも高いので、瞬間に灰燼に帰したのだと――ただそこには灰すら残らなかった。
 この原爆の最初の実験場で、私は最も恐ろしい戦慄すべき荒廃の姿をこの眼で見た。広島の警察署長は私を被爆した患者の治療が行われている病院に連れて行ってくれた。
 これら病院には、爆弾の落ちたとき、全く傷を負わなかった者が今や、薄気味悪い後遺症で死んでゆく人たちがいた。はっきりした原因もなく、どんどん病弱になってゆく。食欲がなくなる。髪の毛が抜ける。体には青い斑点が現われた。そして耳、鼻、口からは出血した。
 医者がいうには、最初、症状は一般の衰弱の兆候だろうと思ったという。患者にはビタミンAの注射をした。結果はおそろしいものだった。注射針でできた穴の所から皮膚が腐りはじめた。そしてそのいずれの場合も、被爆者は死亡した。
 これが、私の見た、人間の落とした最初の原爆の後遺症の一例だが、私はそれ以上の症例は見たくなかった。
     ★

『原爆詩集』(峠三吉著、岩波文庫、2016年)

 ここに全文を紹介することはできないが、ぜひ一度このサイトで記者の報告を読んでいただきたい。全ての原爆文学を列挙することはできないが、最後に私が一つだけあげるとしたら、峠三吉の『原爆詩集』である。それは次のように始まる。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

 この序文に続く作品全体を読めば、昭和20年(1945年)8月6日、そして9日、広島・長崎の空の真下で起きたことを知るだろう。79年前の8月を振り返り、まだ読んだことの無い人には、ぜひ一度、峠三吉の絶唱を、声に出して読むことをお勧めしたい。
【参考文献】
★ロサンゼルス・タイムズ(https://www.latimes.com/local/obituaries/la-me-hisaye-yamamoto-20110213-story.html
★ノーモア・ヒロシマ(https://hiroshimaforpeace.com/hiroshimakenshi-nomorehiroshima/

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