《記者コラム》聖人の島で起きた無慈悲な惨劇=南国の楽園を地獄に変えた近代史

楽園と地獄――コントラストに気が遠くなる現実

アンシェタ島の桟橋の様子

 その日のアンシェタ島は真っ青な晴天に恵まれ、白い砂浜が広がり、静かな波が打ち寄せていた。次々に水着姿の観光客がボートから上陸し、南国のビーチそのものだった。
 海岸沿いの散策路を歩くと、遠くを飛ぶカモメやどう猛なハゲタカが目に付く。鬱蒼と生い茂る林をよく見ると、水着姿でピクニックをする観光客のお弁当を狙ってハナグマ(quatis)が下草にまぎれ、カピバラの子供のようにも見える後ろ足が細いアグーチ(Cutia)が散策路に出てきて、ミコ・レオン・ドウラドのような子ザル(saguis)などがすぐ横の木に張り付いていた。
 そんな野生動物が次々に出てくる様子からは、この島の自然環境の豊かさを痛感する。人間という生き物は、なぜこんな楽園のような場所を地獄に変えようと思うのか?――ここで起きた数々の悲しい歴史を思うと、あまりのコントラストに気が遠くなった。

ツアー主催者の3人、宮村秀光さん、中沢宏一会長、榎原良一さん

 終戦直後の大半が無実だった日本移民172人への拷問や収監だけでなく、戦前のブルガリア移民への刑罰による151人の死亡、1952年の囚人大暴動鎮圧での100人以上の殺害などがここを舞台に起きたのがウソのようだ。
 17日、清和友の会(中沢宏一会長)のツアー「第3回ブラジル日系社会遺産遺跡巡り」でアンシェタ島にやってきた際、刑務所の廃墟とその背景に鬱蒼と茂る森を見ながらしみじみと人間の無慈悲さと愚かさ、そして、今も世界各地では戦争や紛争が起きている現実に悲しい気持ちが湧いてきた。

ブルガリア移民とガガウズ人151人の犠牲者名を記した横断幕

100日間で151人死亡、ブルガリア移民の悲劇

 1926年、ブルガリア移民とガガウズ人(主に東欧のモルドバ共和国に居住する民族)2千人が聖州地方部のコーヒー農園で働くために移住してきた。彼らはあまりの奴隷労働のひどさに農場主に抵抗して争う姿勢を見せた。それに怒った農場主らは警察に訴え、その結果、彼らはこの島に懲罰として強制収容されたという。
 この島は地味が薄く、マンジョッカ(キャッサバ芋)ぐらいしか収穫できず、しかも他に食べ物がない中でマンジョッカ・ブラーバ(有毒種)を知らずに食べ、入植わずか100日間に151人が亡くなるという悲劇が起きた。
 二度にわたるバルカン戦争で苦しんだ上、戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡という世界史上最悪の第1次世界大戦が起きて荒廃した欧州から、東欧移民たちははるか南米に平和を求めて移住し、もう一つの地獄を見た。
 この惨劇を忘れないように子孫が2014年9月に来て島で死亡した入植者リストが書かれた一覧表を、ビジターセンターに貼って行った。初期日本移民の移住地でも同様だったが、この一覧表の死亡時の年齢を見ると大半が5歳以下だ。
 森林財団職員によれば、この子孫たちは、清和友の会のツアーの2週間前にこの島を再び訪れ、7月25日に日本移民が政府謝罪を得たことを話題にしていた。「日本移民に続け」とばかりに謝罪請求が起きる可能性もありそうだ。

刑務所に収容されていた日本移民172人のリスト

特別扱いされた日本移民

 対岸の町ウバツーバとの間には早い海流が流れており、生きてたどり着けない脱出不可能な監獄島として、ヴァルガス大統領が独裁政権を執った1930年以降は、ブラジル全体から選りすぐりの凶悪犯や政治犯が送致された。
 そこに1946年から2年間余り、172人の日本移民も収容されていた。終戦直後、日系社会は日本戦勝を信じる「勝ち組」が大半を占め、敗戦を認識した「負け組」との間でいさかいが起き、お互いに殺しあう「勝ち負け抗争」に発展した。その勝ち組の中でも最大勢力だった臣道聯盟の幹部が、この島に送られた。
 実際に殺害事件を起こした強硬派(過激派)の当事者約10人余りも島送りにされたが、それ以外の大半は臣道聯盟幹部で、DOPS(政治社会警察)の取り調べで行われた「踏絵」(御真影や日の丸を踏ませるもの)を拒絶したものなどだったという。兄弟に強硬派がいたというだけで収監され、DOPSやアンシェタ島で拷問を受け、それが元で死んだ池田福男さんもその一人だ。

今も残る日本移民が拓いた散策路の鳥居

 森林財団職員のルーカス・トマゼウ職員(31歳)の解説によれば、1946年から3年間、島の学校で教員を務めた女性の自伝には、日本移民のことだけで1章を割き、他の収監者とはまったく違う人々であったことが記述されている。「この島は主に政治犯や重犯罪者が収監された。日常的な拷問や人権侵害の中で、日本移民は看守らと信頼関係を築き、別扱いされるようになった。技師や農業者が多くいて、壊れていた発電機や舟を修理して、痩せた土地で米まで生産して暮らしを向上させたと記録に残っている」などと説明した。
 例えば収監者の山内房利さんは、数年前に発電機が壊れて以来、島に電気がない状態だったのを修理し、電気が使える状態にして皆に喜ばれた。それ以外にも船の修理もした。地味が薄い土

地にも関わらず、いろいろな野菜を生産し始め、米まで収穫し、刑務所官吏を驚かせたという。

無残な日常が書かれた『アンシェタ島追想記』

佐藤正雄著『アンシェタ島追想記』の表紙

 だが、そこに至るまでが大変だった。
 臣道聯盟の発起人の一人で島送りにされた佐藤正雄さんが書いた『アンシェタ島追想記』(1977年、自家出版)によれば、1946年12月26日、日本人の仲間12人が石牢(狭い懲罰房)に突然入れられた理由を聞きに、看守長の軍大尉と交渉しようとしたら、「お前たちの話など聞く必要ない。生かそうと、殺そうと、ただ思うようにやるだけだ」とふてくされ、兵士を獄舎の前に集めた。

 《大尉を先頭に十六・七人位棒を持った(紐を付けて腕に巻き付けてある)獄卒兵が来て入り口前二列に両側に並んだ。扉を開くと同時に少尉が飛び込み、「サイサイサイサイ」(出ろ出ろ)と連呼しながら棒でところ構わず殴りつける。その内先に殴られた者が室外に逃げ出すと二列に並んで待ち構えていた獄卒兵が又、めった打ちに殴りかかり、一米三〇糎の高さのベランダより突き落とされ、転ぶところを更に殴る。卒倒する者が出てくる。この有様を見つめながら大尉は「ポーデマタポーデマタポーデマタ(殺しても良い、殺しても良い)」と声高に命令している》(52~53頁)
 《一番先に殴られた池田君の如きは、四カ月も腹膜にて当病院に入院手当中、サンパウロ病院に移送するために室に連れ帰っていたところを滅多打ちにされてその場に卒倒した。一月二日、サンパウロより迎えが来て連れ帰ったが、病気は悪化して昭和二十三年七月二十三日サンジョゼにて療養中死亡せり、行年二十四歳》(53頁)などとある。
 そのような非人道的な扱いに耐える中で、日本移民は官吏から一定の信頼を受けるようになり、天長節(天皇誕生日)を祝ったり、運動会を開催することも許されるようになった。奥原マリオ純監督のドキュメンタリー映画『闇の一日』(https://www.youtube.com/watch?v=kbaehRBjQ98)はユーチューブで無料公開中であり、アンシェタ島での生活が日高徳一さんによって語られている。

ブラジル史上最悪の暴動

 1948年頃に日本移民が釈放された後、同刑務所は再びブラジル人凶悪犯、政治犯で一杯となった。しかし上記のような扱いの悪さに、1952年6月に大暴動が起きて118人(囚人110人と看守8人)が死ぬ大惨劇に発展し、ブラジル近代史上最悪の刑務所暴動として当時、国際的に問題視され、1955年に完全閉鎖された。
 これは1992年10月に聖市にあった南米最大の刑務所カランジルーで起きた大暴動を鎮圧する過程で起きた大虐殺(囚人111人死亡)が起きるまでは、伯国史上最悪の刑務所虐殺と言われた大事件だった。
 この惨劇と日本移民が収監されていた時期は4年程度のズレしかないことから、反乱時の看守の大半は日本移民抑留時に居た者だったと思われる。同じ待遇の中でも日本移民は大半が模範囚として過ごしたが、凶悪犯らにとっては反乱を起こすほど耐え難いものだった。

血塗られた歴史に剣舞書道吟を奉納

刑務所跡地で献納された白虎隊の剣舞の様子

 

そんな場所で17日、小池庸夫さんが唸る歌謡吟、小林眞登さん(45歳、2世)の見事な剣舞、河村淳さんの書道吟が同時に披露され、先人を忍んだ剣舞書道吟「白虎隊」として奉納された。

 小林さんに追悼法要の剣舞を舞った気持ちを尋ねると、「幕末、会津藩は朝敵という濡れ衣を被せられ、戦争を仕掛けられ、白虎隊などの悲劇が生まれた。大戦中の日本移民も敵性国人との汚名を着せられ、酷い目に遭った。この歴史を重ねて思い浮かべながら先人の魂を鎮め、今ようやく皆さんのことがきちんと認められましたよと奉納する気持ちで踊りました」と述べた。
 小池さんは「戊辰戦争の時に19人もの会津藩少年らが自害した悲しい歴史は日本史に残るもので、その剣舞は戦前移民もきっと舞われたに違いない。それを奉納することで少しでも先人の魂の慰めになればと思った」と説明する。書道吟を始めて2年という河村さん(80歳、島根県出身)=パラー州ベレン在住=は、「吟剣詩舞と書道吟を一緒にやるという組み合わせは、たぶん日本にはないのではないかと思う。剣舞書道吟というブラジル独自の日本文化スタイルで、先人に奉納できたことはとても嬉しい。ベレンでは琴の演奏も入れていますよ」と笑顔を浮かべた。

左から小林さん、小池さん、川村さん

 恩赦委員会の後、毎週のようにウバツーバに通っている奥原純さんは「悲しい歴史を繰り返さないためには、日本移民の歴史を風化させないことが重要。島でこうした顕彰行事を行っていくことは意味があ

る。そのためにはもっと地元ウバツーバ市とのつながりを強め、日系団体活性化を図ることは今後の課題」と述べた。
 ガイドによればこの島は、最初の住人である先住民族タモイオス族とトゥピナンバス族にとって「太陽が最初に射す場所」であり、病気などを直しに来る神聖な地だったという。
 以前は「イーリャ・ドス・ポルコス(豚の島)」という名称だったが、1934年がアンシェタ神父の生誕400年であることにちなんで現在の名前になった。1553年にイエズス会本部からブラジルに派遣された最初の布教師の一人で、2014年にはバチカンから聖人認定されたカトリック界の最重要人物の名前だけに、その血塗られた島の歴史は実に皮肉に聞こえる。(深)

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