小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=29

 中でも飛び抜けて大家族の井上馬太郎を押えれば、十六人はまあ井上の考え通りに動くだろう。井上が慎重な性質で、あまり騒ぎを好まない筈だと運平は思っていた。
 それに、運平個人に反抗しようとしているのは西だけで、あとの人々にとって運平は交渉相手ではなく、〝通訳さん〟だった。
 彼がメシを喰い終ってぬるい白湯をのんでいるとき、
「入っていいですか」
 と入口で声がした。
 井上馬太郎の声だった。運平の顔にホッとした表情が浮んだ。

 …第一回の要求書がつきつけられたのは翌朝だった。
 仕事に行く前に長屋の前にかたまった一団の男たちの中から、西が進み出て紙切れを運平に渡した。
「一、ちんぎんのはらいを月ごとにすること。
一、かぞくごとに伍百ミルぜんしゃくすること。
一、ざつむのちんぎんを伍ミルにすること。」
 と書いてあった。
 賃金を三カ月毎に払うことは契約書に明記されていたし、五百ミルもの前借しをする義務は農場側にない。日本での誇大宣伝にダマされて、全然儲からぬ処へ多額の金を費って連れてこられた人々の、鬱積した憤慨の捌け口が農場側へ向けられたのだった。それはおかしい、と咎めたところで他に訴える相手はいないのだ。
「よろしい。農場側へ伝えよう。責任者は誰かね」
 と運平は西に言った。
 要求の内容はサン・マルチーニョ農場と同じだった。
「これは皆の意見だ」
 酉は答えた。
「それは分っている、しかし、交渉には責任者を何人か立てんとね。全員で押しかけて行く訳には行かんよ」
「それなら、俺と、俺の家長の上井忠と……」
 西は数人の名を挙げた。彼は上井の家族として来ていたが、家長より三つ年上だった。運平はその名を加えて紙片をポケットに収めた。
 農閑期なので、人々は思い思いに受け持ちの区域へ行けば良かった。採取期のように監督の角笛に統治されない。
 ポツポツと畑へ行く人影のかつぐクワが朝霧の中をゆれて行く中を、運平は本部へ足を急がせた。

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