小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=30

 サルトリオ総支配人はモーニング・コーヒーを飲んでいた。別名を小さな昼食と呼ぶだけあって、テーブルには種々のパンや果物やチーズやハムがピカピカに輝く銀器に盛られて、白い服を着た黒人の女中がサーヴィスしていた。
「よう、イラノ。何の用かね」
 サルトリオは気軽に声をかけた。
「ま、一緒にやらんかね」
「じゃ、コーヒーだけ」
 と断って彼は坐ったが、
「私の名はヒラノ。イラノではないです」
 と言った。
 ポルトガル語にHの発音はないので、ハヒフへホはHが脱けてアイウエオになる。例えばアサヒはアサイ。ハナはアナ。大抵の人は面倒臭いからそのままにしてしまうが彼は辛棒強く訂正した。
「フィラノ」
 サルトリオはむずかしそうに何度か言ったが、やがてヒラノと呼べるようになった。
「日本人、働きたくない゚三家族を追い出す。そうすれば、あとの人、働く」
 と、運平は言った。
「……!」
 サルトリオは驚いたように相手を見た。
 サン・マルチンの大騒動の話はすでに聞いていたので、運平の言いたい意味はすぐ分かる。
 しかし、まだ騒ぎも起きていない段階で、思い切ったことを言いだす若造だな、と興味探そうな顔になった。
「そうしたら、本当に、他の連中は働くようになるかね」
「シン・セニョール」
 と運平はうなずいた。
 絶対に自信があるわけではないが、機先を制した方が勝ちだと思っている。桶狭間の近くで育ったから織田と今川の戦の話は耳にタコができるほど聞かされている。
 平野家は遠く源氏の流れをくみ、織田の家臣でもあったというからなおさらだった。祖父や養母から聞いて育った物語りが、こんな場合の若者の行動に影響を与えても不思議はない。
「よろしい。お前の言うようにしよう。日本人のことはお前が一番良く知っているからね」
 サルトリオは詳しく開かずに大まかに頷いた。
 農場としては、金をかけて呼び集めた労働者を一年の契約が済まぬうちに出すのは、損害である。でも、運平の言うように三家族だけで済めば、他の二十家族が助かる。州兵まで出動したサン・マルチンーニヨのような騒動は避けたかった。

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