「ボリビアに来てよかったですか?」
「はい!」
そう笑顔で勢いよく答えてくれたのは、1954年の第一次移民として16歳のとき、家族と共にボリビアに渡ってきた比嘉敬光さん(86歳)だ。
父がフィリピン開拓に従事した関係で、敬光さんはそこで生まれて7歳まで育ち、後に那覇市へ。開拓精神溢れる少年だった敬光さんは「当時はボリビアのジャングルの中で寝る覚悟だった」と笑いながら振り返る。
1954年8月6日にブラジル・サントス港に到着し、列車に乗り換えて、15日にボリビア移住地「うるま移住地」に入った。「水たまりの水を飲みながら頑張ったよ。井戸を掘っても塩水が出てきて飲めなかったからね」
5haの森林が伐採され、その土地に丸太小屋が建設中という状態であった。各家庭50m×50mの土地が用意されていたが、場所は原生林の中。移住者同士で日々励まし合いながら開拓生活を送っていたが、原因不明の熱病「うるま病」が流行り始めた。
敬光さんは「サンタクルスにある病院に連れて行きたかったけど、川を越える必要があり、そこからさらに遠いから行くことができなかった」と辛い当時を振り返った。最終的に「うるま病」は第1次と第2次移民団の約400人中、罹病者148人、死者15人を出す惨状になった。
グランデ川の氾濫による水害被害を受け、入植1年も経過しないうちにうるま移住地を放棄し、新たな場所への再入植を余儀なくされた。1956年3月にグランデ川の西岸、うるま移住地の対岸に新たな移住先が選定され、7月に現在のオキナワ第1移住地への入植がはじまり、敬光さん一家も移る決断をした。
移住後に行った農業や養鶏、豆腐製造などの事業はうまくいき、敬光さんは「あの時が一番景気が良かったね!」と笑う。「でも一番若かったから下っ端として何でもしたもんだよ。『バルバル』という先住民族が作物を盗みにくるから、朝方3〜4時の間はずっと銃を持って見張りをしていた」と苦労もあった。幸いにも地元宣教師がバルバル族と友好関係を築いており、先住民族との間に騒動が起きたことはなかったという。
敬光さんは畑仕事に精を出す傍ら、移住地内に運動場を作ったり、イベント開催を積極的に行ってきた。ある日、沖縄から三線が送られてきた。「僕に演奏は無理だな」と呟いているのをある教師に見られ、「ちゃんとやらなければ、できるものもできない。しっかりと三線を習って、あなたが教師となって皆にも教えられるようになりなさい」と言われた。
敬光さんは部屋の奥から、「敬光さんのおかげで三線が弾けるようになりました」と書かれた手紙を取り出してきた。教え子から送られてきた手紙だ。まったくの初心者状態から始めた三線だが、今では演奏はもちろん修理まで出来てしまうほどに習熟した。思い出の日々がよぎったのか、敬光さんの目には涙が浮かんでいた。
「コロニアの2、3世は流暢な日本語が使えます。移住地を守るのは彼らしかいない。頑張ってもらわないと」と語る敬光さんの表情からは、心の底からコロニア・オキナワを愛していることが感じられた。(続く、島田莉奈記者)