筆者は南樹を、その一人ではないか、と疑ったのである。さらに(先人たちに対して無礼ではないか!)という不快感を、心中、覚えてもいた。
そういう次第であったが、どういうわけか、この時のことが、以後、気になり続けた。
その内、何かの機会に、古い資料類に目を通している時、自分が大変な間違いを犯していたことを知った。なかんずく恥じたのが(先人たちに対して無礼ではないか!)と不快感を覚えた点である。
というのは、実は南樹は水野とは同時、上塚、平野よりは先にブラジルの土を踏んでいたのだ。
南樹のそれは、なんと一九〇六(明39)年で、日露戦争が終わった翌年である。この時、水野龍も一緒だったが、こちらは一時滞在後、帰国している。南樹は一人、そのまま留まった。
二年後に、笠戸丸移民七八一人が、水野に率いられてサントスに入港する。ブラジルへの日本移民の始まりである。
上塚周平は水野の補佐役として笠戸丸で、平野運平はその少し前に(移民の)通訳としてシベリア鉄道経由で、それぞれブラジル入りしている。この国に関しては、二人は南樹より後輩だったのだ。
ただ、そういう記録を目にしても、筆者は、そんな歴史上の人物が、まだ生きて矍鑠としているという点に現実感が伴わずにいた。ほかの三人は遥か大昔に、故人となっているではないか……。そこで、南樹の年齢を調べてみた。すると、筆者が当人に会った一九六八年には、なんと九十歳であった。九十歳!
その頃は昨今と違って、そんな年寄りが一人で繁華街を歩いたり、三十代の外交官とキレ味のよい論争をしたりするほど、元気な体力と柔軟な頭脳を維持している━━などということは考えられなかったのである。
もっとも筆者は南樹に会った前年、間もなく百歳になるお婆さんを取材していた。このお婆さんは小女時代に自分が住んでいた熊本で「西南戦争を見た」という話をしていた。そのときは幻想の世界に居るような心地がしたものだ。が、西南戦争は一九七七(明10)年に起きており、九〇年前のことであった。お婆さんは十歳に近かったわけで、話の辻褄はチャンと合っていた。
西南戦争時代の人間が生きているのだから、日露戦争時代の人間が矍鑠としていても、驚く必要はなかったのだが、筆者は、このお婆さんのことを、コロッと忘れていたのである。
お婆さんは隈部イヲといい、一九〇六年、南樹より七カ月遅れて、この国に渡ってきた人であった。他にも興味深い逸話の持ち主であり、本稿の先の方で、もう一、二度、登場して貰うことになる。
ともかく、筆者は最初に南樹を故人であると思い込んでいたのを始め、無知や迂闊さによる勘違いを、幾つも犯していたのだ。注意しなければならない、と反省したものである。
それと以下のことも、後から知ったのであるが━━。
笠戸丸移民は、その少し前の若干の渡航者と共に、南樹の受勲辞退騒ぎのあった一九六八年には、まだ、かなり生きていたのである。その生存者に日本政府から勲章が贈られることになり、内々で準備が進められていた。
これは、前年訪日した九人の笠戸丸移民が、日本の一国会議員の運動で、勲六等瑞宝章を貰ったため、
「不公平ではないか、それ以外の訪日できなかった生存者にもやるべきだ」
という世論が盛り上がり、総領事館がその様に計らった━━という経緯があった。
先に記した総領事から南樹への下相談も、右の「内々の準備」の一つであった。南樹の場合、勲五等もしくは四等と、階級が上だったのは、その経歴の中に相応に評価できる部分があったからであろう。
南樹はこの下相談を断ったわけだが、その後、七月になって六十数人の生存者が勲章を貰った。隈部イヲお婆さんも、その中に含まれていた。
ところが、その時、辞退者がまた一人出た。この件は当時、新聞社は気づかず、筆者も知らなかったのだが、辞退者の名は香山(こうやま)六郎といった。青年時代に笠戸丸で━━移民ではなく旅行者として━━渡航、そのまま住み着き、壮年期に聖州新報という邦字新聞を発行した人である。
この話の時点では八十歳を越しており、視力を殆ど失い聴力も体力も衰弱、車椅子生活をしていた。が、気力ひとつで回想録を執筆中であった。
叙勲については、最初は「皆が受けるなら、自分も受ける」と言っていたが、間もなく、その意志を翻したという。その間「南樹、辞退」のニュースが流れている。これが動機であったろう。
ともあれ、あの一九六八年の叙勲は、色々と話題を生んだものである。今、思い出すと、可笑しくもあり懐かしくもある。(つづく)