2021年7月、ユネスコの世界自然遺産に登録された鹿児島県奄美大島。この島には、特別天然記念物に指定されるアマミノクロウサギをはじめ、数多くの固有種が息づく。沿岸に広がる白浜は、まるで遥かブラジルの風景を思わせるかのように美しい。「7色の青がある」と称される海は、浅瀬のエメラルドグリーンから深い藍色まで、無数のグラデーションを織り成している。
今年の盆休み、私は初めてこの島を訪れた。島の中心地の名瀬地域を一望できる高台に立ち寄ると、島民の年配のご夫婦に明るく声をかけられた。夫人は島東部の龍郷町の出身。島の歴史や文化、そしてかつての生活について伺う中、私はふと「この島からブラジルへ移住した方々の話を聞いたことがありますか」と尋ねた。しかし、返ってきた答えは「あまり耳にすることはないですね」という意外なものだった。
まさかそんなはずは――。夫婦と別れた後、インターネットで調べてみると、島の南西端に位置する宇検村から多くの人々がブラジルへと旅立っていた事実が浮かび上がった。さらに、戦後、彼らが送った義援金によって架けられた橋がこの村に存在するという情報も得た。旅の最終日、私はその橋を目にするまで帰路につけないという強い衝動に駆られ、車を走らせた。
語り継がれる伯国橋の歴史
「あった!これだ!」――。照りつける強い日差しの中、村役場から集落内の小道を進んでいくと、突如、小さなコンクリート製の橋が目に飛び込んできた。うっそうと樹木が茂る奄美群島最高峰の湯湾岳から焼内湾に向けて流れる湯湾川。その川に架かる長さ5メートルにも満たない橋には、「伯国橋」という文字がしっかりと刻まれていた。僅かに車が通ることもあるが、ところどころに見える傷みさえも、この静かな佇まいが長い歴史を背負っていることを物語っていた。
「この湯湾集落の住民なら、皆がこの橋のことを知っています。ブラジルに移住された村出身者の方々からの義援金で架けられた橋だと語り継がれています」。村役場で橋の場所を尋ねた際、親切な男性職員がわざわざ橋まで案内しながら説明してくれた。さらに詳しい話を聞くために、役場に程近い教育委員会を訪ねるよう勧められた。
昼時、私は村の食堂に立ち寄り、地元産の牛肉を使ったハンバーガーに舌鼓を打ちながら、教育委員会の場所を確認していた。すると、隣に座っていた女性がふと「実は私、教育委員会の者です。ブラジル移民の方々の歴史も多く展示していますよ」と声をかけてくれた。
その女性、渡聡子さんは北海道富良野市出身。学生時代に奄美大島で、15世紀後半以降の琉球王国の統治下で制度化された「ノロ」と呼ばれる女性祭司に関する民俗学のフィールドワークを行ったことがきっかけで、この島と深い縁を結んだのだという。現在は村の男性と結婚し、教育委員会の学芸員として勤務している。昼食後、私は早速、教育委員会が入る村の生涯学習センターを訪れた。
奄美群島最大の移民を送り出した村
なぜ、奄美大島からのブラジル移民は宇検村が中心だったのか――。その答えは、渡さんらが編纂した『宇検村 ブラジル移民百周年記念誌』(2020年3月刊)に記されている。1918年9月、宇検村で初めての海外移民がブラジルに向けて出発した。最初に故郷を後にしたのは13家族54人。彼らは村を発ち、長崎港から讃岐丸で遥か彼方のブラジルへと旅立った。
当時の宇検村は、人口がピークに達していた。村全体で1292世帯9355人、1戸あたりの人口は7・24人と、奄美大島の中でも特に高かった。しかし、村の90%ほどは山地であり、平地は極めて少なかった。農家1戸あたりの耕地面積はわずか0・27反。これは島内でも最も少ない面積であり、村は食べるものにも事欠く時代を迎えていた。今年7月末現在の村の世帯数が958、人口が1595人であることを考えると、当時の人口過密とそれに伴う生活の困難さがどれほど大きかったかが伺える。
渡さんはその時代の村の決断についてこう語る。「村長は、この困難を乗り越える手段として、海外移民を解決策と見たようです。特に宇検村の場合、村長が移民会社の担当者と直接交渉を行ったことが大きな特徴でした」。センター内の歴史民俗資料室には、当時の移民会社「海外興業株式会社」の熊本市出張所の業務代理人が村長に宛てた書状が展示されており、その時代の苦渋の選択を今に伝えている。
研究論文「奄美とブラジル移民」(田島康弘、1997年)によると、宇検村からのブラジル移民は戦前に73世帯440人であり、鹿児島県内の市町村の中では坊津町、枕崎市に次いで3番目に多かった。戦後は12世帯52人がブラジルに渡り、合計で85世帯492人に達した。これは奄美群島全体の56・4%と圧倒的多数を占めていた。その中でも、湯湾集落からの移民が最も多く、村全体の約6割がこの集落に集中していた。
一方、同記念誌によると、島東部の龍郷町(当時は龍郷村)では、1918年当時、1戸あたりの人口は宇検村に次ぐ7・03人と高水準でありながら、農家1戸あたりの耕地面積は1・16反と島内で2番目に広かった。単純に結論づけるのは難しいが、龍郷町では宇検村ほど深刻な生活苦には見舞われず、移民の必要性もそれほど高くなかったのかもしれない。実際、龍郷町からの移住者は戦後の3世帯17人に限られている。
宇検村と龍郷町は、島のほぼ両端に位置しており、車でわずか1時間強の距離に過ぎない。しかし、その間には急峻な山々がそびえ、かつては宇検村を含め、「陸の孤島」と呼ばれた集落が多く点在していた。トンネルが今ほど整備されていなかった時代、他の村や集落の情報を得ることは容易ではなかったはずだ。宇検村から名瀬地域に向かうのも船で1日がかりのことだったという。
冒頭の島民のご夫婦が島内のブラジル移民についてあまり知らなかった理由には、地域による移民の数の極端な差異に加え、こうした地理的な隔たりも関係しているのかもしれない。
脈々と続く交流の歩み
『宇検村 ブラジル移民百周年記念誌』には、ブラジルに渡った宇検村出身者たちが、故郷との絆を大切に守り続けてきたことが記されている。その象徴が「伯国橋」だ。奄美大島が日本に復帰を果たした1953年、ブラジルに住む村出身者54人から湯湾集落へ約25万円の義援金が贈られた。当時の日本の国家公務員の大卒初任給が8千円弱であった中、この金額は非常に大きく、故郷の復興を願う強い思いが込められていた。
寄付金の使い道は村内で幾度も議論された結果、出身者たちの願いでもあった村の敬老会や学校への寄付のほか、戦時中の空襲で壊された湯湾川の橋の再建に充てられることとなった。橋は感謝の意を込めて「伯国橋」と名付けられた。渡さんは、「この橋は宇検村において、両国を繋ぐ大切なシンボルになっています」と語る。
その後も、ブラジルに住む村出身者たちは故郷に帰る際、多くのお土産を届けてきた。生涯学習センターの入り口には、寄贈者の名前と帰郷年を記したメモと共に、ワニやピラニア、大アリクイといった剥製や宝石が展示されている。当時の村の広報誌「うけん」では、帰郷した出身者一人ひとりのブラジルでの暮らしが紹介されており、出身者の帰郷が村全体で歓迎されていたことが一目でわかる。
ブラジルからの支援は故郷奄美に向けられたものばかりではない。1978年に設立されたブラジル奄美会館(サンパウロ市ヴィラ・カロン区)は、奄美出身者たちの拠り所として、運動会や懇親会など各種行事で利用されてきた。その設立に際して、出身地奄美内の市町村では「百円募金運動」が行われたという。
平成の時代に入っても交流は続いた。島の地元紙「南海日日新聞」が報じた長期連載「ブラジルの大地で 奄美移民80年の軌跡」の初回記事(1998年11月4日付)によると、それまでは縁戚同士の交流が中心であったが、1998年の奄美ブラジル移住80周年の際には、奄美から初の親善訪問団がブラジルを訪れた。
こうした周年の記念式典には、村長や職員らがブラジルを訪問し、現地の移民関係者たちとの絆を深めてきた。また、2010年の奄美豪雨災害時には、ブラジル在住者が世話人となり、義援金を募る活動も行われた。
懐かしさ込み上げたブラジルでの交流
そして、宇検村ブラジル移民100周年を迎えた2018年。渡さんによると、村内ではこの節目を祝う機運が大変盛り上がったという。同年7月、宇検村長や村議会議長らがサンパウロで開催された「ブラジル鹿児島県人会創立105周年記念式典」および「宇検村ブラジル移住100周年記念祝賀会」に出席するため、ブラジルを訪問した。その準備に奔走したのが当時、同村出身で村役場の総務企画課長であった渡博文さんである。
博文さんは、初めてのブラジル訪問を懐かしさと感動が交錯する想いで振り返る。サンパウロ・グアルーリョス国際空港に到着した際、迎えに来てくれた1世の移住者たちが、今では奄美大島でも耳にすることが少なくなった美しい島口(奄美の方言)で話しかけてくれたことに、深い感銘を受けた。「その瞬間、ブラジルは遠く離れているのに、心はすぐ近くに感じました。ただただ懐かしい気持ちに包まれました」と語る。
奄美大島の各地域でも方言や訛りが少しずつ異なっているが、さらに集落ごとに微妙な違いが見られるという。博文さんは、移住者たちの言葉からどこの集落出身であるかすぐに分かったと話す。200人近くの宇検村出身者とその家族らが集まった交流会では、「まるでどんちゃん騒ぎでしたが、懐かしさに溢れ、初めて会った気がしませんでした」と、笑顔で振り返る。祝賀会では、村から持参した黒糖焼酎「れんと」を振る舞ったが、故郷の地酒とあって、あっという間に無くなってしまった。「もっと持ってくればよかったですね」と苦笑いを浮かべる。
訪問初日、移民上陸の地、サントスへ向かう途中に渡った巨大な川と、その両岸の広大な原生林も印象に残ったと振り返る。奄美大島では、マングローブ林をカヌーで探索でき、観光客にも人気がある。博文さんは「これは観光資源になりませんか」と尋ねたが、現地の同行者からは「こんなのは普通だから観光にはならない」と言われ、さらに驚かされたという。
「やはり規模が違いますね。でも、ブラジルに暮らしている方も、奄美と気候や雰囲気が似ていると言っていました。私もそう感じました」と、遠く離れた二つの土地の共通性を肌で感じたという。
ブラジルで出会った人々の友好さも印象的だった。「現地で日本人というだけで信頼されていることが伝わってきました。移住者の方々が現地で頑張ってこられたおかげだと思いました」。
博文さんは、10年前に家系図を調べた際、父方の祖父の兄2人が戦前にブラジル移住していたことが分かったという。「祖父は5人か6人兄弟の3番目でしたが、2番目の兄については昭和元年(1926年)頃にサンパウロで住民登録していました。ただ、もう一人の兄については、島を出てから関東で一度働きブラジルに渡ったようで、あまり詳しいことは分からないでいます」と少し残念そうに話した。
次世代に続く新たな交流の幕開け
宇検村には現在、村民出身者の2世を中心に、自らのルーツであるこの地に暮らすケースも見られている。3世の県費留学生がこの島を訪ねてきた際には、村で温かい交流会が開かれたという。
2018年11月には、宇検村出身者の2世や3世の訪問団が村を訪れ、歓迎会が盛大に開かれた。会場では、村民との間で、久しぶりの再会に抱き合って喜ぶ場面や新たな交流を喜ぶ声が多く聞かれたという。その際、伯国橋の上では一行の記念撮影も行われた。
教育委員会としても、この節目を記念して、宇検村からのブラジル移民の歴史とその足跡をたどる企画展を生涯学習センターで開催した。2019年には、横浜市のJICA横浜でも企画展「ブラジルと奄美・宇検村」や講座を開き、多くの来場者が宇検村とブラジルの絆に触れる機会となった。
「皆さんの先人たちがブラジルを目指したその決断は、宇検村の素晴らしい歴史だと認識している。次の世代へ語り継ぎ、交流を深めていきたい」。2018年10月号の広報「うけん」には、宇検村長がブラジル現地での交流会の際にそのように挨拶したと記されている。
宇検村からの移住の歴史は、決して望まれた形で始まったものではなかったかもしれない。しかし、その歴史は100年の時を経て、世代を超えて地球を跨ぐ深い絆を築き上げた。その象徴とも言える伯国橋はわずか5メートルにも満たない小さな橋であるが、静かに集落の中心地に佇むその姿は、遠く離れた二つの奄美――宇検村とブラジルを繋ぐ心の距離を示しているように思えてならなかった。
今後ますます交流が育まれ、その絆が次の世代へと確実に引き継がれていくことを願ってやまない。