入植70周年=ボリビアにあるオキナワ=小さな村の壮大な歴史=(4)人生の終盤、30年後に戻る故郷

婦人会の皆さん(左端が津坂涼子さん、右から2番目が宮城アメリアさん)

 婦人会元役員の津坂涼子さん(74歳)は第12次移民(1961年)として、12歳で家族と共に金武町からコロニア・オキナワに移住した。8人兄妹の長女として育ち、母の苦労をそばで見てきた。
 「当時は、産めよ増やせよの時代。移住してきた母には頼れる両親が近くにおらず、とても苦労していた」と思い出す。涼子さんは、妊娠や出産で動けない母の代わりにご飯を作り、弟妹たちの面倒を見て家庭を支えた。沖縄から持ってきた臼を使って、母とかまぼこや豆腐、キャッサバ芋を潰したくず餅を作るなど毎食工夫をこらしていたという。
 1972年に夫(第13次移民)と結婚し、家族でアルゼンチン国ブエノスアイレスへ10年間のデカセギに行った。同地では、移住地時代に妹たちのために洋服をミシンで縫っていた経験を活かして縫製業に就いた。
 ブエノスアイレスに自宅を購入したが、アルゼンチンでは今後の収入増が見込めないこと、日本へのデカセギブームが始まったことを受け、一度ボリビアに帰った後、日本へ。日本では約20年間、神奈川県藤沢市で暮らした。長女は涼子さんの背中を見て育った影響からか、文化服飾学院に進学したという。
 約30年間、人生の半分以上をコロニア・オキナワから離れて生活してきたが、いざ子どもたちの独り立ちを見届けると、なぜか、ボリビアに戻りたくなったという。コロニアには12歳から結婚するまでの10年余りしか住んでいなかったが、それは人生にとって大事な人格形成期でもあった。
 「ボリビアの自然や食べ物が恋しくなって、なぜか一番苦労した場所に戻りたくなりました。そしてコロニアの人たちの為に何かしたいと思うようになりました」との心境変化を語る。移民にとっては、人格形成期を過ごした場所が〝第2の故郷〟になる。
 結局、2000年ごろにコロニア・オキナワに戻った涼子さんは、当時コロニア内で始まったデイサービス活動で裁縫を教えたり、踊りの衣装作りを始めた。仕事等で日本に行く機会を利用しては、多くの裁縫材料を購入し、持ち帰った。
 ある一人のデイサービス参加者が亡くなり、その葬式に参加した際、涼子さんと一緒に作った作品が居間のガラスケースに綺麗にしまわれているのを見て、思わず感激の涙を流した。
 涼子さんのコロニアへの想いとその活動は、多くの人に影響を与え、コロニア・オキナワの今を形作っている。涼子さんの目と手が誰よりも輝いて見えた。(島田莉奈記者、続く)

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