小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=35

 彼は有利な賃仕事を探してくる一方、草とりはやかましく言って見廻った。除草期は監督もほとんど不要で、時々馬で廻るくらいなのに、運平に率いられた日本人たちは実に丁寧に草をとった。それは、小さな狭い田畑にしがみついて生きて来た、日本農民の体質だった。移民のほとんどは他の職業出身だが、日本人のだれもが百姓とは一本一本草を抜き、米の一粒をもムダにしてはいけないものだ、と思い込んでいたのだ。だから、運平が見廻って樹の下を覗き込んで、まだ残っている雑草を指摘しても、自分が手を抜いたと首をすくめて仕事をやり直した。
 そんなことは粗大な原野に育ったブラジル人には考えられなかった。
 ところで、コーヒー園は肥料を使わない。木を伐って山を焼いたあとの肥沃な土壌にコーヒーを植え、何十年かかけてゆっくり地力を消費していくだけの農法だった゚従って実の成り工合は天候の条件を別にすれば除草が完全かどうかで左右されるのだった。雑草が茂っていればコーヒーの成りは当然悪かった。
 サルトリオの目には、日本人の除草ぶりは賛嘆に価するものだった。葉切り蟻以上かもしれなかった。採集期には季節労働者を入れるとして、普段は日本人を主力にしたいと考えるようになっていた。そしてその日本人をまとめているのは運平だった。
 移民は、希望する農場が州政府に登録し、移民会社がそれとにらみ合わせて分配するから、一農場がそう勝手にはできない。新移民を必要な数だけグァタバラに引っぱるには思い切った手を打つ必要がある。
 それで、サルトリオは運平を副支配人に大抜擢したのだった。
 サルトリオ自身も、資本もなく、腕一本で抜擢された人間だった。彼はイタリアで産業革命で没落したギルドの親方の家に生れてブラジルに来た。本来なら、コーヒー園で働いたあとサンパウロ市に移って中小工業の担い手になった階層のイタリヤ人に属するのだが、グァタパラ農場で大工から機械監督の仕事に手を染めるうち、かなりの発明をした。コーヒー園の中を流れている小川の水力を利用して、等高線にそって溝を掘り、そこに収穫した実を流す装置を工夫、完成したのだった。溝は最後に乾燥所入口に流れ込むようにした。運ぶ手間がはぶげ、実の洗浄ができ、比重で三等級に分けられる、一石三烏の装置だった。この発明の功で、総支配人の席が空いたとき、彼はそこにすえられた。
 そういう経歴のサルトリオにしてみれば、若いが見どころのある運平を副支配人に引きあげるのに、何のためらいも不要だった。

最新記事