入植70周年=ボリビアにあるオキナワ=小さな村の壮大な歴史=(5)米州大陸に散らばった家族が再会

親川さん(左)とアメリカから一緒に参加したゲートボール仲間のシゲル・タイラさん
親川さん(左)とアメリカから一緒に参加したゲートボール仲間のシゲル・タイラさん

 「米国からの方はこちらに並んでくださーい」―8月17日式典当日、そんな式典係員の呼びかけに応え、会場前の一団がぞろぞろと移動を始めた。その中の一人、親川猛さん(72歳)はフロリダからの参加者だ。
 親川さんは1954年、第2次移民として2歳の時に羽地(現名護市)からボリビアに一家で入植した。当初はパロメティアのヤパカニ川付近に住み、農業を始めたが、土地は農地として適しておらず、リオグランデ川付近に移動した。しかし、そこで「うるま病」が流行し、コロニア・オキナワに移った。
 一家は米作りを行ってきたが景気は悪く、親川さんは17歳になる頃、アルゼンチンの親戚を頼って単身デカセギに行くことを決めた。コロニア・オキナワからは何百人もがブラジルに転住したが、言葉が違うブラジルより、同じスペイン語圏内でデカセギする方が一般的だったようだ。
 「アルゼンチンで稼いで、兄の分の学費も払う!」との意気込みだったが、アルゼンチンでも給料はあまり良くなく、「結局兄の学費は払えなかった」と笑う。
 その後、開業資金を貯めて、ブエノスアイレスで洗濯屋を始めた。経営も軌道に乗った30歳のころ、結婚相手を探しにボリビアに戻った。
 無事に結婚相手を見つけた親川さんは、新生活の地に「儲かる」との評判のあった米国ロサンゼルスを選んだ。ロサンゼルスでは農業経験を活かして庭師となり、その後、南部フロリダに転住した。
 米国ではアルゼンチンに渡った時よりも、言葉の面で苦労したという。当時、英語の夜間授業は無料で受講可能だったため、働きながら勉強を続け、自分で仕事の契約ができるように励んだ。
 一方で、米国にはヒスパニック系も多いため、スペイン語を使うことも多い。アルゼンチン、米国でも遮二無二に自らの道を切り開いてきた親川さんだが、「大変さ」という点で言えば、やはりジャングルを相手にしていたボリビアでの方が勝っていたようだ。
 親川さんの兄、弟、妹の一人は、今もボリビアで暮らしている。姉は沖縄。もう一人の妹は猛さんの呼び寄せでアルゼンチンから米国に移り住んだ。
 米州大陸に散らばった兄弟家族との久しぶりの再会となった式典当日、親川さんは友人にひっきりなしに声をかけ、再会を喜んでいた。遠く離れて暮らす家族や同胞との貴重な再会の機会――。
 親川さんたちの笑顔を見つつ「節目節目に行われる式典や大会は、移住者たちにとって大きな役割を果たしている」との確信を覚えながら、賑わいを見せる会場へと足を運んだ。(島田莉奈記者、つづく)

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