ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(6)

前田十郎左衛門

サルバドールの街並み(joquerollo, Public domain, via Wikimedia Commons)

 それは先の話として、日本で榎本が降伏した翌一八七〇年十月、ブラジルの大西洋岸北方のバイア港に入った英国の練習艦隊で、地元の住民を驚かす事件が起きた。
 払暁、艦内で一人の日本人が割腹自殺をしたのだ。これが前田十郎左衛門、二十三歳であった。
 日本海軍の操練所の貢進生(生徒)で、留学生として英国に向かうため、この艦に乗っていた。
 操練所は、その頃、兵学寮と改称されている。後の兵学校である。前年、つまり明治二年、東京築地に開設され、十二人の貢進生が学んでいた。
 同三年、偶々、右の英練習艦隊が横浜に入港した。その時、英国大使が日本政府に、留学生を同艦隊で英国に派遣するよう勧めた。
 そこで、操練所の貢進生の中から前田と伊月一郎が選ばれて乗艦、英国に向かった。
 ところが、その航海中、右の割腹事件が起きたわけである。
 地元の新聞は「短刀で腹部を十文字に斬った後、喉を数回突き刺した。その壮烈さに乗組員や住民は深く感動した」と報じた。
 動機については「長く、故国及び家人と離れて、望郷の愁いに堪えられず、以前から憂鬱症にかかっていた結果であろう」としていた。
 遺体は、地元の英国人墓地で告別式が行われたが、異教徒であったため、ヘブライ人の墓地に葬られたという。
 南樹は「この国に骨を埋めた最初の日本人」と十郎左衛門を位置づけている。が、切腹の動機の望郷説には「武士が、そんなことで腹を切るか!」と、大いに不満であった。
 そこで真因を調べようとして既述の一九六〇年の訪日の折、十郎左衛門の郷里鹿児島まで足をのばした。が、仙台行と同様、得るものは殆どなかった。
 それでも諦めず、ブラジルに戻ると六年後にバイア港のあるサルヴァドールまで行っている。地元の新聞社、図書館、歴史地理学協会、市役所そして墓地まで歩き回ったが、無駄に終わった。
 司教庁に行って訊ねると「ヘブライ人墓地というものは存在しない、多分、ラザロ墓地のことであろう」というので行ってみたが、手がかりはなかった。つまり、雲をつかむ様な結果になった。代りにフロリアノポリスの時と同様、短歌をつくっている。
 十郎左衛門については、そういう具合であったが、伊月一郎については、南樹は別のルートで多少の資料を入手した。
 伊月は徳島藩士で、十郎左衛門の切腹に関する資料を遺していた。が、動機については、
 「…(略)…英国軍艦内の規律余り厳格にして、人権無視の趣ありしを憤慨せしが、是が原因か何かは判じかねる…(略)…」
 とのみ記していた。
 二人は、最初、同じ艦に乗っていたが、十郎左衛門は、途中から別の艦に移されたという。

前史(中)

 右の切腹事件の後、この国に現れた日本人が三人いた。ただ、いずれも入国時期はハッキリしない。三人とも放浪者であった。
 一人はリオの北東、現在のノーバ・フリブルゴの辺りで、農場主の娘と結婚したという。その姓を冠した名の農場が残っている━━とだけ南樹は記している。
 二人目は竹沢万次という。四国の生まれで士族だったらしいが、大阪で軽業師になり、その後、どういう経緯によるものか、リオに流れ着いた。ドン・ペドロ二世に一時仕えていたという。その軽業や日本人という珍しさを買われてのことであったろう。
 ところが一八八九年、軍部がクーデターを起こし、帝政を廃止、共和制へ国体を移行させるという革命が起こった。ために万次の雇い主であるドン・ペドロ二世は━━先帝や先々帝と同様━━ポルトガルに去ってしまった。万次は失業、サーカスの一座を組み、イタリア人の女と一緒になって、巡業して歩いた。
 三人目は通称「秋庭の爺さん」で、ハワイに移民として渡った後、英国船に乗り組んで航海中、サントスで下船した。
 時代が二十世紀に入って━━南樹を含め━━ブラジル入りした日本人の中には、晩年の万次や秋庭の爺さんと会った人もいる。
 南樹によれば、万次は殆ど日本語を忘れていた。しかも、落ちぶれてサーカスの一芸人に過ぎなかったという。
 秋庭の爺さんは、自分の年齢も、自分がいつサントスに上陸したのかも覚えていなかった。
 爺さんはリオの街路を、ガラス製の箱を頭に乗せて、チャルメラを吹きながら、いいかげんなポルトガル語を使って菓子を売って歩き……少しでも小遣い銭がたまると、娼婦に入れあげていた。後にサンパウロに移って、やはり、そんな暮らしをした。
 千葉の実家は中産階級、長男は陸軍の佐官で「旅費を送るから帰国をするように」と、しばしば手紙を寄こした。が、爺さんは「日本に戻ったら、こんな馬鹿な真似はできなくなる」と笑って、とりあわなかった。
 万次も秋葉の爺さんも、この異郷で生を終えたが、その最期の様子は定かではない。(つづく)

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