大武和三郎
話の時期を少し戻すが、一八八九年の革命、帝政廃止の四年後、リオで提督クストージオ・デ・メーロを中心とする海軍軍人の反乱が起きた。これに兵学校の生徒も参加していた。
その生徒の中に一人の日本人がいた……というから、これまた奇談である。
その日本人の名は大武(おおたけ)和三郎といった。純然たる日本人の青年であった。それが、こういう場面に突如現れたのは、次の様ないきさつによる。
一八八九(明22)年、ブラジルの軍艦アルミランテ・バローゾ号が横浜に入港した。これにドン・ペドロ二世の孫、つまり親王殿下が乗っていた。艦長がメーロ提督であった。
殿下は横浜滞在中、アチコチ見物して歩いた。案内役を務めたのが、この港町に住んでいた和三郎で英語が達者であった。十代後半だった。
その時、殿下に気に入られ、ブラジル行きを誘われた。即座に誘いに乗り、父親を説得したが、なかなか許しが出ない。結局は出たが、それに手間取っている内、艦は出港してしまった。諦めず、長崎まで追いかけ乗艦、殿下づきのボーイにして貰った。
艦は西回りでブラジルに向かった。ところが航海中、殿下の国で━━何度目かの繰返しになるが━━革命が起こり帝政が廃止された。
リオからの知らせによれば「皇帝ドン・ペドロ二世はポルトガルに去れり」という。殿下はやむをえず、途中で艦を下りた。和三郎のことはメーロ提督に託した。
艦がリオに着いたのが一八九〇年である、和三郎はメンデス商会という処で働き始めたが、メーロ提督の好意で海軍兵学校に入学した。
三年後の一八九三年、メーロ提督が同志たちと決起した。革命政権が共和制の樹立を宣言したにも関わらず、大統領選挙を実施しないため、それを要求して……という。
港に浮かぶ十数隻の軍艦に革命旗を掲げ、陸上の政府軍と対峙した。
メーロ提督は若者に人望があり、彼を慕う兵学校生徒の一部が、革命旗の下に参じた。その中に和三郎も……と、そういう次第であった。
戦いの詳細については資料を欠くが、砲戦もあったらしい。が、反乱軍は次第に不利になって行った。食糧も不足した。
結局、降伏するが、その直前、和三郎は士官たちから「君は外国人であり、犠牲になることはない」と脱出を勧められる。当人は抵抗したが、結局、下船した。(その後、メンデス商会に戻ったり、地方でカフェーの精選工場で働いたりした)
以上は、鈴木南樹著『埋もれ行く拓人の足跡』に記されていることだが、この話の中の兵学校入りに関しては、
「外国人の大武が、正規の生徒だったとは考えにくい。当時の兵学校の資料にも、そういう名前は記載されていない」
と、否定する説もある。
確かに、正規の生徒ではなかったかもしれない。が、既述の前田、伊月の例からすると、当時は軍の教育機関でも、その生徒の留学が、国際間で行われていたのであろう。それに準ずる扱いだったということも考えられる。
南樹は後年、大武から直接聞いた話を書いている。在校していたことは確かであろう。
翌一八九四(明27)年、祖国日本は清国と開戦した。和三郎はそれに従軍すべく帰国の途につく。が、日本に着いた時、戦争は終っていた。
一八九五(明治28)年、日本・ブラジル両政府の間で、修好通商航海条約が結ばれた。二年後、それぞれ相手国へ公使館を開設した。
二十代半ばになっていた大武は、駐日ブラジル公使館に招かれ、長く奉職した。「日伯両国の外交業務は、実務面で総て彼の手を経た」といわれる。
その勤務の傍ら葡和辞典、新葡和辞典、和葡辞典を著した。
大武が公使館勤務中の一九〇八(明41)年、ブラジルへの日本移民が始まった。が、移民は言葉が判らなかったため、就労先で無数の悶着が発生した。それを知り、私財を投じて、辞書作成という畢生の事業に取り組んだという。
第二次世界大戦で、日本とブラジルの国交が絶えていた一九四四(昭19)年、没。
最期まで移民のことを気にかけていた。病床で睡眠中、頻りと口にしたうわごとは、すべてポルトガル語であったという。(つづく)