小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=38

「どうする。待つか?」
 ベンソンの前で御者は訊ねた。
「そうだな。ちょっと待ってくれ」
運平は降りて中で聞くと、やはり上塚周平も引き払っていた。
「ここにいた日本人ならシルヴァ・テレス街二十八番へ移った」
 帳場の男は親切に教えてくれた。
「どの辺だろう?」
「ブラス駅の近くだ」
 移民収容所のそばだった。通訳組が一カ月半ほど住んでいた付近らしい。あの辺なら地理も解るから馬車代の十分の一ですむ市内電車で行ってもいいのだが、あたりには黄昏が迫っていた。
 運平は再び馬車に乗った。
 繁華街を抜けると、馬車はトコトコ長い坂を降る。ブラス駅の近くは町工場などがあり下町らしさもあったが駅を過ぎて暫くすると風景は俄かに淋しさを加えた。牧歌的なのどかなたたずまいではなく、都会の隅に吹き寄せられた貧しい人々の生活が醸しだす遣り場のない寂蓼が、じめじめした平べったい土地から漂っていた。
 馬車が停まったとき、空には三日月がくっきりと浮んでいた。そして大きくないが、一応はちゃんとした一軒家の前だった。
 馬車を帰して、彼が案内を乞おうとしたとき、向うの空地の草むらを二人の労働者風の男が、袋をかつぎながら横切ってくる姿が目にとまった。その影に見覚えがあった。
 一人はヒョロッとして猫背で、もう一人はずんぐりしている。
「上塚さん!」
 運平は声をかけた。
「誰かな……」
 応えがあった。
 運平は走り寄った。懐しきがこみ上げた。
「平野です」
「おお、平野くん」
「元気ですか。やあ、香山くんも一緒か」
 笠戸丸で来て、周平の書記になった香山六郎だった。
「よく此処が分ったね」
「上塚さん。私はグァタパラの副支配人になりました。日本人が認められたのです。それをあなたに報告したくて来たのです」
 暗い中で、顔をのぞき込むようにして、運平は勢い込んでそう言った。
「おっおっ!」
 周平は奇声を挙げて、袋を投げだした。カラカラと乾いた音がした。泥だらけの顔に笑いが拡がった。

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