ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(10)

堀口九万一(『物故先駆者列伝』1958年)

 杉村は喜んで、その好意を受け、視察旅行に出発した。すると、サンパウロ行きの汽車に乗れば、特別車室が用意されており、到着すれば大統領専用の馬車が、侍従武官や護衛騎兵つきで待ち構えている……という具合だった。地方巡回中は、歓迎ぶりが層倍のものとなった。一般市民までが人波をつくって迎えた。
 これを、杉村は対日感情の現れと大喜びし、その点を強調した報告書を━━視察に同行していた━━堀口九万一書記官に執筆させ、自分の名で東京の本省へ送った。報告書は、サンパウロ州を日本移民の適地と認めていた。
 しかし、どうして公使館は、かくもガラリと変ったのだろうか?
 一部には「それは、杉村や堀口の性格による」とする説もある。その積極的な気性が、こういう転換を可能ならしめた、というのである。
 が、一方には批判的な説もある。つまり、杉村に対する厚遇・歓迎ぶりは、
「大統領の政治的配慮、お祭り好きで外国人に対する好奇心の強いブラジル人の国民性によるものであり、後者は元々その場限りの騒ぎでしかない。特に、この時期は日露戦争中で、ロシア相手に連戦連勝を続ける日本人に対する素朴な興味が重なっていただけである」
 と。
 従って、それを本物の対日感情と勘違いして、本省へ報告した杉村はお調子者だ、というのだ。
 そうだろうか? いかに公使とはいえ、この種の方針転換を新任早々、独断でするとは考えられない。
 ちなみに杉村は、この十年前、朝鮮の日本公使館に書記官として勤務していた。その時、三浦梧楼公使と共に、いわゆる閔妃殺害事件を惹き起した━━という嫌疑をかけられたことがある。堀口も領事官補として勤務していた。
 杉村は事件後に逮捕され、三カ月間、広島の拘置所に拘置された。結局、免訴・釈放となるが、その後、台湾総督府へ左遷されている。やがて外務省に復帰したが、そういう苦い経験をしたことのある人間が、厚遇や歓迎を受けたくらいで、軽々とそれに乗るようなことはなかろう。
 では、公使館が方針を一変させたのは、何故か? 
 当時の年表に目を通すと、数年前から米国で日本移民の排斥、通称「排日」が、きな臭くなっており、杉村着任の前月には、カリフォルニア州議会に排日法案が提出されている。
 日本の外務省は、こうした動きに対処する必要があった。それには、米国に代る大口の移民送出先を開拓するのが有効である。その候補たりうるのはブラジルくらいしかなかった。
 実は、外務省は杉村赴任前からペトロポリス公使館の堀口に、この件を研究させていた。国際市場でのカフェー市況も回復に向かい、ファゼンダでの悶着も終息しつつあった。
 ということで、赴任する杉村に、ブラジル移民具体化の任務を与えていた━━と読むと、筋道が通ってくる。
 着任早々の杉村が、普通なら急ぎもしないカフェー地帯視察の予定を決めていたのも、そういう事情によろう。さらに、その予定をわざわざ新聞発表したのも、近く会見する大統領に、それとなく知らせる根回しであった。無論、助力を得るためである。大統領も、その意図を察知、呼吸を合わせた━━。
 杉村が本省へ視察報告書を送ると、本省は直ちに、これを新聞発表している。同時に堀口書記官に帰朝命令を出した。同書記官は日本に着くと、各地で杉村報告書を基調とする講演会を開いている。
 カフェー園移民への積極的な取組みは、本省の政策転換だったのである。
 なお、杉村はミナス州も視察、やはり同行した堀口に書かせた報告書を本省に送っている。

草創期(3)

 杉村報告書が、日本で新聞発表された一九〇五(明38)年の暮れ、一人の青年が横浜港から東廻りの南米航路の客船で旅立った。二十七歳の鈴木貞次郎、つまり南樹である。ただし、この時点では杉村報告書とは関係ない。
 南樹は山形県の産で、生れは一八七八(明治11)年である。少年時代に初恋を経験した。生涯、その相手を懐う歌を、照れずに詠み続けた。

ふと君を 恋いそめしより 四十年 
わが胸にのみ 包む悲しさ

 これを詠んだのが、五十歳を過ぎてからであった。当時の人間なら、誰でも棺桶に入る心構えをしていた年輩である。
 前にも書いたように、南樹の歌はどれも素人臭いが、これは当人も認め(それでよし)としていた。(つづく)

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