しかし、彼は結婚式を挙げようとしなかった。彼女に不満があった訳ではない。なぜか?と自問することがあった。外見はすっかり一農場の勤勉な副支配人になり切っていながら、心の中にはまだ見ぬ世界を広く訊ね歩きたい若者の夢が息づいていた。結婚することはその夢を断念することだった。家族を連れて異郷をさ迷う悲惨をイヤというほど見てきた運平には、〝夢が生きているかぎりはおいそれと結婚へ踏み切れないのだった。最近、びんに白髪が目立つようになったサルトリオが運平を食事に呼んだ。彼は晩婚だった。娘が三人いた。食事は彼女たちが腕によりをかけたイタリヤ料理だった。
「私はまだ十年は働けると思う」
サルトリオは仔ブタの焼肉をすすめながら、
まだだれにも言っていないが、独立するつもりだと打ち明けた。
「えっ!」
運平は小さく叫んだ。青天の霹靂だった
すると、辞めるんですか、ここを」
「うん」
サルトリオは頷いた。
「とりあえず五十万本を目標にして土地を買う。ヒラノに私の仕事を手伝って欲しい。苗を植えてから四年目に結実するまでの世話を請負ってもらいたい。私は全財産をつぎ込むつもりだ。四年たったらヒラノも十万本くらい植えられる儲けがある私の近くに土地を買って、自分の農場と私の処の両方を監督すれば良い」
「そんな都合のいい大きさの土地が手に入りますか?」
運平はいい話だと思いながらも、首をかしげた。彼の知っているモジアナ一帯のコーヒー園は百万本単位で、土地の切り売りなどしなかった。
「この辺には我々程度の資本では割り込めないさ。しかし、ちゃんとコーヒーが出来て、しかも土地を切り売りする処はある」
「そうでしたか」
グァタパラのコーヒー園については知り尽していた運平だが、他の地方のことはあまり知らないのだった。
「私を助けてくれるね」とサルトリオは言った。
「ヒラノがついていてくれるなら、私も安心だ」