ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(18)

笠戸丸(Wikimedia Commons)

 その質の悪さは、笠戸丸でサントスに着いた移民がサンパウロへ移動、移民収容所に入って数日すると、バレてしまった。それを、通訳の大野基尚が、後に日本で出版した自著の中で、要旨次のように記している。
 笠戸丸移民は移民収容所で、偽家族の多さが発覚した。戸籍を調べると、妻が五十七歳で亭主が十七歳という夫婦まであった。収容所側がベッドをつくっても、同衾しない夫婦が多かった。『皇国殖民は手数料稼ぎのために、浮浪の徒や農民でもない者を寄せ集め、見も知らぬ者同士すら組み合せて、家族をつくっている』と、収容所側は見抜いた」
 この偽家族つまり構成家族に関しては、南樹も「十八歳の家長のもとに十六人の家族が居り、それが皆、家長より年上だった」事例もあった」と一資料の中で記している。
 加えて、皇国殖民はブラジルの生活様式を、移民に教えることを怠っていた。その結果は、右の大野の著によれば、こんな具合だった。
 「彼らは、食事時を報せる鐘が鳴ると、食堂に駆けつける。フォーク、スプーン、ナイフを一緒に食器の中に突っ込む、こねまわす。行李の中から取り出してきた箸で肉塊をつつく。面倒くさいとばかり、皿を両手でひっかかえ、ずるずる音をたててすする。
 市内見物に出ると、所構わず放尿する。手鼻をかんで、建物の壁にひっかける。女は、着物のうしろを一寸つまみあげて立ち小便をし、子供を背中にくくりつけ、胸のあたりを丸出しにして歩く。
 右のすべてを、地方から来たファゼンダの経営者や管理者が目にし耳にしていた。カフェー園の労務者用に雇用を予定していた人々である。彼らが一変した。一流のファゼンダは雇用の予定を取り消したり、数を減らしたりした。その分、二流、三流の所が引き受けた」
 ファゼンダ側の反応については、筆者が別の資料で調べた処、笠戸丸移民を雇用した六ファゼンダの内、一流の所はその数が少なく、二、三流の所が多くなっている。
 一方で、その移民たちは、まことに口うるさく、通訳達を悩ませた。
 通訳は前章で触れた様に、日本からの五人に南樹を加えて六人いた。彼らは移民の世話役も兼ねさせられていた。それが大変な仕事となった。
 何しろ八百人近くが相手である。
 通訳の加藤順之介の場合、移民収容所では、煩わしいこと目が眩むどころではなく、気絶しても間に合わぬほどとなった。食事、便所、病院、寝台、入浴の世話……その他と用件は数限りなくあった。移民からは水が欲しい、子供が病気だ、金を替えたい、カフェーが苦くて飲めぬ、油入りの飯は食えぬ、日本飯をくれ、寒いから毛布をもう一枚……といった類いの苦情、要求が際限なく殺到した。
 収容所には初の日本移民を視察すべく、農務長官や新聞記者、ファゼンダの経営者や管理者が、引きも切らずやってくる。その応対・通訳中でのこれであった。
 念のため付記しておくと、笠戸丸移民については、コレイオ・パウリスターノという新聞の記者がサントスで取材し、その清潔さ、秩序正しい行動などに驚き、称賛記事を書いている。
 この記事については、香山六郎(前章参照)が「皮相の観察」であるという意味のことを彼の著に記している。
 多分、その記者は笠戸丸移民のごく一部を見て、好意的に記事を書いたのであろう。

儲けどころか…

 次に儲けであるが。━
 儲けとは、移民がカフェー園で働いて得る収入から、支出を引いた残額、つまり利益のことである。当時の移民たちは、それを儲けと表現した。それが悪すぎた。主因は笠戸丸のサントス遅着にあった。
 前章で記したことだが、農務長官は移民の到着時期を四月と要求した。これはカフェーの収穫開始に間に合わせようとしたのである。が、笠戸丸移民は六月になってから、ノコノコやってきた。農場に着き就労した時は七月に入っており、収穫期は半ばを過ぎてしまっていた。(続く)

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