ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(19)

 その上、この年は実生りが悪かった。カフェーは生りの良い年と写真を入れる悪い年が交互にくる。
 ファゼンダでは、幾分でも結実の良いカフェー樹は先住・先着の南欧移民の労務者を使って、収穫をしていた。残っていたのは、古木化して結実の悪い樹であった……
 ということは、収穫量は僅かであり、労務者の賃金も━━その収穫量によって計算されるため━━少ないことを意味した。
 そういうことを知らぬ移民たちが、イザ働き始めると、信じがたいことが起きた。稼ぎの額が、日本で聞いた皇国殖民側の話とは、丸きり違っていたのだ。
 前の作物を育てたり、豚や鶏を飼ったりすることを許した。これを余作あるいは間作といったが、上手にやれば、小金ていどのモノは残るのである。
 南樹は、自分のファゼンダ生活の経験から、そういう内情を知っていた。「カフェー園の労働は、初年度は儲からない仕組みになっており、八割までが赤字である。余作をやって一年一年、次第に生活が充実し、剰余金が出るようになっている」と。

水野龍(Public domain, via Wikimedia Commons)

 このことは、水野龍に報告していた。
 しかし移民たちは、そんなことは聞いていなかった。彼らは、ただただ、カフェーを収穫しさえすれば、濡手にアワ式で儲けられ、ひと財産稼いで日本に帰れる━━と思い込んでいた。皇国殖民側の移民募集の折の話では、そうであった。(前章で記したことであるが、明治初年以来、日本移民は、その殆どが出稼ぎのつもりでいた)
 明らかに南樹の報告は、水野によって握り潰されていたのである。「もし公表したら、移民が集まらなくなる」と危惧したのだ。その上、誇大な……というより虚偽の宣伝をしていたのである。

他にも悪材料が幾つも…

 以上、移民の質と儲けの二点だけでも、騒ぎが起こるには充分であった。ところが、ほかにも悪材料が幾つも重なっていた。
 その一。ファゼンダでの生活環境が劣悪であった。
 ファゼンダは、二十年前までは奴隷を使役していた。従って、労務者の住まいは、一部を除けば奴隷時代より多少良い程度でしかなかった。極端な場合、奴隷を押し込めていた小屋を改造しただけ……という所もあった。
 その部屋には何もなく、寝台その他の家具は、入居者が自分で山から木を伐ってきて、作らねばならなかった。
 台所は粗末極まるもので、水汲み場は遠かった。
 しかも便所が無かった。人間が物陰で用を足すと、放し飼いの豚がやってきて舐めて後始末することになっていた。
 サンパウロの市内で、立ち小便をして市民を驚かした移民たちではあったが、この便所がないというのは驚きであり屈辱ですらあった。結局、自分たちで、それをつくった。
 その二。労働は不快かつ苛酷であった。
 朝は、フィスカール=現場監督=が鳴らす、なんとも厭な響きのする鐘の音で起こされ、何㌔も歩いて仕事場へ連れて行かれ━━これも日本での皇国殖民側の話とは大分違う━━重労働が長時間、続いた。(つづく)

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