《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史 坂尾英矩=(25)=「ブラジルのベニー・グッドマン」=当地ジャズ史に名を遺す醍醐麻沙夫

小説家としての顔は多彩な才能の一つ

作家・故醍醐麻沙夫さん

 ブラジル風物や日本移民をテーマにした数多くの作品を残した作家、醍醐麻沙夫氏(本名:広瀬富保(とみやす))の死はブラジル日系社会にとって大きな損失だった。特に日本移民百年史編纂委員長として貴重な記録を完成したのは日伯交流史に残る功績である。
 しかし、オール読物新人賞や外務大臣表彰を受賞した彼の数々の活躍は巷に知られているが、ポピュラー音楽界において一流の演奏家だった一面は語られていない。世間では「醍醐さんは凄く器用な人だ」と言われたが、それどころか醍醐氏は天才というより稀に見る奇才だった。つまり生まれつきではなくて色々な技術の修得が早く、どの分野でもその道のエキスパートに達しているのだ。

醍醐さんの著作の一部

 先ず学習院大学美術科を卒業して、横浜市彫刻展に入賞したほどの「仏像彫刻家」だった。その探求心は猛烈で、奈良、京都、鎌倉などの古寺を回り警備員がいない隙を狙って仏像を撫でまわす熱心さだった。
 次に「釣り師」としてその道に入り込んだのは彼が小説家を目指して南聖地方の日本人植民地アナ・ディアス日本語学校の教師をしていた時で、持て余す自由時間を近くのウナ川で毎日釣りに励んでいたのである。凝りすぎて海釣りで大波にさらわれ九死に一生を得たこともあった。
 ところがいつの間にか日本で『アマゾン河の食物誌』(集英社)をはじめ、3冊の釣り関係書を発行してブラジル釣りの博物学者みたいになったのである。また開高健の評判作アマゾン釣り紀行『オーパ!』は醍醐氏が現地でコーディネーター兼通訳として付き添ったのが大きな力となっている。
 ブラジルで有名な釣り師グランデ小川氏が「醍醐さんの博学は凄い。経験長い僕の方が教わることが多いですよ」と評していたくらいだが、ちなみにグランデ小川氏とは1970年からアマゾン流域に移住した元国立科学博物館研究員だった。

醍醐さんのスポーツウエア店名刺

 また醍醐氏は優れた「裁縫職人」、すなわち洋服仕立て屋だった。一体いつどこで習得したのか知らないが、ひとときサンパウロ市内で最もおしゃれな街だったルア・アウグスタをはじめ三カ所の目抜き通りにオーダーメイド・スポーツウエア店を経営していたのである。店の名はジャズの名曲からとった「バードランド」だった。オーダーメイドだから型紙作りまでは全部自分が丁寧に仕上げたので客の評判が良く、著名な美術家、豊田豊画伯が「今でも愛用してますよ」と言うくらい持ちがいい製品だった。

東海林太郎ブラジル公演 VASP機内(1967年、醍醐氏と筆者)

一流のクラリネットやサキソフォーン奏者

 醍醐氏が執筆業以外にプロとして最も長い間従事したのはポピュラー・ミュージックのクラリネットとサキソフォーン奏者だった。
 話はさかのぼるが私の母校、横浜翠嵐高校へ入学してきた醍醐氏と知り合ったのは放課後の軽音楽部練習所で、ジャズ好きが集まって遊んでいた時だった。彼はコルネットを持ってきて「メンバーに入れてください」と言ったのである。
 学生コンボのリーダーは後にレコード業界の名編曲家となった小谷充、トランペットも日本有数のニューハード・オーケストラの羽鳥幸次というベストメンバーがいたので、小谷リーダーが「テナーサックスだったらよかったのになあ」とこぼしたとたん醍醐氏は「では持ち代えてみます。少し時間を下さい」と言って空爆を逃れた学校の楽器を借りて行った。
 彼の家は松ヶ丘という港が見える丘の私がいつも通る道に面していたので、毎日猛練習している音が聞こえた。それから3カ月もたたないうちに彼は楽器をぶら下げ練習場へやって来て「大丈夫です」と言ったのである。テナーサックスのアドリブ(即興演奏)が始まると小谷リーダーはOKのサインを出して「これから君の名はトミーだよ」と命名した。
 この愛称は彼に一生付き添うこととなった。
 終戦直後はあらゆる物資が不足して教員の給料も少なかったから、音楽教師が夜キャバレーで演奏していても誰も文句を言わない時代だった。生徒たちの中でも力量がある者は進駐軍の日雇い人夫「プータロー」をやって、「ニコヨン」つまり240円稼いだが学校や世間からも批判の声など出なかった。ジャズバンドのアルバイトはその倍くらいもらえるし好きな事だから苦労ではない。
 横浜市中心部はほとんど米軍施設となっていたからバンドの仕事に欠かすことはなかった。翠嵐高校のジャズコンボがジャズマン・トミーの初舞台となったわけである。

東京六大学音楽祭プログラム

 その後クラリネットを買って、当時のスイング王、ベニー・グッドマンに凝りだしてから色々なステージに呼ばれるようになった。静岡市公会堂で催された東京六大学ジャズ・フェスティバルの際に、トミーは日本大学ジャズバンドの欠員の肩代わりとして出演したが、大会総出場者の中で只一人の高校生だった。
 トミーはブラジルへ渡航する1960年まで数多くのバンドで演奏したが、有名なスマイリー小原とスカイライナーズでバリトンサックスを受け持ったのがハイライトとなった。しかし何と言っても忘れられないシーンは、横浜港山内桟橋に投錨したオランダ軍艦内ジャズ大会だった。トミーのアドリブ・ソロパートが終わるたびに水兵たちが総立ちとなって拍手喝采したのである。

日本大学ジュニア オール スターズ、テナーサックス 広瀬富保、トランペット 羽鳥幸次、ベース 坂尾英矩

サンパウロのジャズ史にも名を遺す

 彼がブラジルへ着いた頃は日系社会が日本から芸能人を呼ぶブームの始まりだったから、多くの有名歌手の伴奏オーケストラにはトミーの姿が必ず見られた。彼の最後の花のステージは1970年の美空ひばりショーで、サンパウロの一流ミュージシャンを集めたビッグバンドは日本からの同行4人の他日本人は私とトミー二人だけだったが、私たち二人共ハマっ子で、しかもひばりさんの実家魚屋を知っていたのだから彼女は驚いていた。
 訪伯芸能人の伴奏以外にトミーはジャズマンとしてサンパウロのジャズファンやミュージシャンの間で彼が奏でるベニー・グッドマンのようなスイング感が知られるようになっていた。サンパウロのデキシーランド・ジャズ界のリーダー的存在だった元関西学院大学の名トランぺッター右近雅夫氏は勿論、トミーとテレビや大学祭などで共演している。右近さんのトミー評は「広瀬さん(トミー)とやると気持ち良く乗れますわ」だった。
 また東京でジャズマンだったバイブの久晃一クインテットではクラリネットを主体としたので、この編成のバンドがないブラジルではマスコミ紙上で注目され、フォーリャ・デ・サンパウロ紙主催のジャズ大会では受賞している。このトミーのジャズ界での活躍は日系社会で知られていないがサンパウロのジャズ史『Jazz na Garoa』(1966年)にはトミーの名が登場してくる。著者Edoardo Vidossichはトミーを「ブラジルのベニー・グッドマン」と呼んで賞賛していた。

Edoardo Vidossich著『JAZZ NA GAROA』(1966年)、サンパウロのジャズ史に記載された主要ジャズ演奏家リスト。※註=殆どの人がアマチュアになっているのは、ジャズマンとしては生活が困難のために、それぞれ他の本職をもっているから

 では何故日本人のジャズがそんなに好まれたのかと言うと、ブラジルには優秀なジャズマンは大勢いるが、そのほとんどはビバップ流行期から入ったモダン派だから、それ以前の古いスイング感がよく出ないのだ。
 一方、日本人は終戦後アメリカの洗礼を受けているから、あの頃のスイング感が体に馴染んでいるのではないかと思う。久晃一氏は日本人街の小さなアメカン横町でライブバー「チェリー」を経営してトミーも演奏していたが、宣伝もしないのに米国婦人記者、アメリカ総領事館員、欧米商社駐在員などが来るようになったのは、この年代の欧米人はジャズが本当に良かったスイング時代のファンだから、ブラジルであまり聴けない「チェリー」のサウンドに、くちコミで客が集まったのだろう。
 ニューヨークで有名となったブラジル人ピアニスト、ドン・サルバドールがサンパウロ州の田舎から出てきて仕事場を探している時に、アメカン横町から流れるバイブとクラのスイングビートに慰められた、と後日私に語った。また、米国婦人記者がトミーに「あなたはベニー・グッドマンそっくりね」と言ったのは当時の事情を代表する証しである。
 醍醐氏葬儀直後の日曜日、私は現在「東洋人街」と呼ばれる日系人中心地ガルボン・ブエノ街を通ったが、人込みの波にもまれてなかなか前へ進めなかった。それは、鳥居アーチや提灯型街灯が設置された以後、当局の後援で地下鉄リベルダーデ駅名にジャポンが追記されて新店舗が増え、一般ブラジル人でにぎわう観光名所となったからである。

ブラジル トヨタ ジャズ コンサート(久晃一クインテット バイブ 久、クラリネット 広瀬、ピアノ 坂尾)

 ここは醍醐氏着伯の翌日に食事を共にした場所なので、私はあの日の事を思い出した。当時この辺りは邦画常設館の行列以外は閑静な町並みだったのである。
 トミーは焼きそばを食べながら「ここは移民の郷愁の町なんですね。なんだかうら寂しいなぁ。横浜の南京町みたいに魅力アップしてサンパウロの観光名所にすればよいのにね」と言った。この醍醐氏の日本人街に対する第一印象「南京町にすればよいのに」とは、彼がハマっ子だからこそ出た表現だったなぁ、と私は人込みでもみくちゃになりながら思い出して、「また一人生粋のハマっ子が消えてしまった」という一抹の淋しさで胸を絞めつけられたのである。

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