ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(22)

鈴木南樹(『伯国日本移民の草分』)

 しかし最年少だった山野政一が発熱、死亡した。十六歳だった。彷徨中、不注意に生水を飲んだのが原因らしかった。
 この間、ファゼンダでは、移民の騒ぎが険悪なモノになっていた。
 通訳は加藤順之介だった。
 彼は不運だった。
 ここに送り込まれた移民は二〇七人で、他のファゼンダに比較すると二倍から四倍という多さであった。しかし給料は他の通訳たちと同額だった。
 加藤は「ファゼンダへ行く汽車の中では手が幾本、足が幾本あっても足りない忙しさ」となった。
 ファゼンダに着くと、最初の夜は移民は仮宿舎に泊められた。ともろこしの殻を敷いただけの土間だった。皆、蚤にせめられて一睡もできなかった。その苦情が一斉に加藤に集中した。
 その後、移民は三カ所のコロニア(この場合は、粗末な集落式の居住区の意)に分散された。
 加藤は、その三カ所を廻りながら仕事をしなければならなかった。馬で行っても、遠い処は往復四十分かかった。
 早朝から夜まで駆け回らねばならなかった。ために食堂の夜食に間に合わなかった。そこで働く一人の娘が同情して、つくってくれた。
 支配人にコロニアを一カ所にまとめる様に頼んだがダメだった。
 移民たちは、家具作りや買い物、カフェーの収穫の仕方の練習など準備に三日かけ、四日目から、いよいよ働き始めた。
 夜明け前に起きて、男は梯子をかつぎ、女は乳飲み子を背負い、子供は弁当を持ってカフェー園へ向かった。
 移民たちは収穫にかかった。が、直ぐおかしいと気づいた。一向に捗らないのだ。一日一袋半くらいにしかならない。初めは慣れないためだろうと思っていたが、三日経ち一週間経っても変わらない。日本で皇国殖民側から聞いた九袋という話とは全く違っていた。
 やがて月末が来た。その月の賃金と売店での買い物代金を清算する日である。その通帳を見ると、皆、赤字になっていた。移民たちは頭の中が真っ白になり、次いで半ば発狂状態になった。
 彼らの怒りが、加藤に向けて殺到した。百方陳弁しても聞き入れない。
 移民たちは、結実の良いカフェー園への移動を要求した。
 が、ファゼンダ側は承知しない。
 加藤は、サンパウロの上塚にすぐファゼンダに来る様に電報を打った。
 上塚は(ドゥモントの近くに在った、やはり笠戸丸移民の就労地の)ファゼンダ・サン・マルチニョで通訳をしていた南樹に、現地へ急行するよう連絡した。
 南樹は馬で出かけた。が、通訳の加藤順之介は、持ち前のぶっきらぼうな口調で「水野が悪い。なるようになったんだ」と憮然としている。すでに投げている様子だった。
 移民の説得に自分と同行するようにも頼んだが、加藤は「オレは嫌だ」と事務所を離れない。
 止むを得ず一人で移民たちのコロニアへ行った。その姿を見つけると、四方から皆が駆け寄ってきた。彼らの口から発したのは不平不満の連続である。特に収穫量の少なさを訴えた。加藤が威張るだけで親切心がないと訴えた。
 南樹はカフェー樹を見て回った。なるほど、老木ばかりで枯れ枝が箒の様にそそりだっている。
 コロニアに戻り皆に集まってもらい(既述の)カフェー園の労働と儲けの仕組みを説明した。
 しかし移民たちは聞き入れない。それはそうであろう。日本で聞いた皇国殖民側の話とは丸で違っていたからである。今更、別のことを言われても、承服できる筈はなかった。
 南樹はサン・マルチニョに引き返した。二十数キロの草原や森の中を絶望的な思いで……。馬に拍車をいれるのも忘れていた。

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