ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(23)

 火の手あがる

上塚周平(Katalog, Public domain, via Wikimedia Commons)

 八月の初め、上塚がドゥモントへ向かった。水野龍は未だサンパウロに居ってホテル生活をしていた。が、この種の仕事は上塚に押しつけていた。
 以下、児玉正一著『上塚周平』による。━━
 上塚がファゼンダへ着いた。それを移民たちが、ワッと取り囲んだ。次いで耳たぶを掴んで引きずり回し、
 「コラッ、貴様は、よくも我々を食い物にして、こんな所へ嵌めこみゃがったナ。それでも人間か、こらァ、こっち向け」
 と、痰唾を吐きかけ、「殺す!」
 と短刀を持ち出し、「腹を切れ」
 と迫った。怒り狂っていた。
 対して、上塚は頬に涙を流しながら、こう謝罪した。
 「イヤ、まことにお気の毒にたえない。諸君を窮状に陥れた責任は私どもにある。私に命を捨てよ、と言われるなら、もとより命は惜しまない。腹を切れというなら腹も切ろう。…(略)…残念なことには諸君と同様、自分たちはブラジルの事情が何も判らなかったのだ…(略)…だが、私が死んだら犬死だ。第一、諸君が迷惑する。どうか今少し生かしておいて、諸君のために尽くさせて貰いたい。私は生命にかえて尽くすことを誓約する」
 これで、その場の興奮が幾らか鎮まった。
 上塚はファゼンダに七日間留まり、時に地面に手をつき、仕事を続けるよう移民たちに頼んだ。が、それだけは拒否された。止むを得ずサンパウロへ引き上げた。ただ、この時以来、移民たちの上塚を観る目は変わった。その人柄を見直す方向へ━━。
 逆に男を下げたのが水野である。
 八月中旬、水野は日本から届いた幾らかの資金を持たせて使者をドゥモントへ送り、例の神戸で預かった金の一部を返した。その上で自身も現地入りした。公使館の三浦通訳官、移民収容所のブラジル人所長が同行した。
 それを激昂した移民たちが、手に竹槍や鍬を持って迎えた。「一瞬、大地が沈黙、次いで怒号、叫喚が野獣の咆哮のように唸り出した」という。
 預託金を少しくらい返して貰っても、怒りは収まらなかったのである。水野に、ありとあらゆる罵声が飛んだ。
 「その禿頭を、地面にすりつけて謝れ」
 という叫びもあった。 しかし水野は、腕を組んで沈黙しているだけだった。ために移民たちの怒りは一段と燃え上がった。
 結局「全員、サンパウロの移民収容所に引きあげ」ということになった。
 騒ぎの主導者の筆頭は、目黒静という巡査あがりの宮城県人であった。日本で同種の騒ぎがあれば、取締りに当たった方である。
 やはり主導者の一人に、法華宗の坊主がいた。これがカフェー収穫用の三本足の梯子にのぼり、不平不満を皆に向かって演説中、足場を踏み外して転がり落ち、したたかに身体を打ってしまった。本人は「以後、俗事を解脱した」と、悟ったようなことを言っていたという。

 飛び火

 笠戸丸移民は、リベイロン・プレット方面ではドゥモントのほかにサン・マルチニョ、カナーン、グァタパラの各ファゼンダで就労していた。相互の距離はいずれも数十㌔ずつあったが、騒ぎは次々と飛び火した。移民たちが、日曜ごとに往き来していたという。
 九月の初め、サン・マルチニョから「日本移民の労務者に、不穏な動きあり」と、電報がサンパウロの移民収容所に発信された。ところが、収容所がこれを州の農務長官へ注進したため、そこからペトロポリスの日本公使館へ、さらにサンパウロの皇国殖民へ打電……と、何やら大ごとの様相を呈してしまった。
 このファゼンダの通訳は、すでに記した様に南樹だった。
 ここでは、騒ぎは九月の初めに始まった。その日の朝、南樹がカフェー園の収穫場所へ行くと、普段と違って静かである。二十七家族の内、二家族しか働いていない。罷業だという。

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