小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=59

 しかし、四辺には開拓の痕跡は何一つ残っていなかった。何の為にこんな処に人が住んだのか、崩れかけた小屋は何も語ろうとしない。静かで少し不気味な感じを漂わせながら、小屋はひっそりと存在していた。
 人々は小屋を後にして更に進んだ。
 七キロはども進んだろうか。時計は五時を指していた。
 「オーイ、今日はこの辺で泊るぞ」運平は先頭に向って叫んだ。こはヤシが多いためか木がまばらになっていて、どうやら夜営できそうな場所であった。枝に三㍍四方の天幕を三つ吊して夜露を防ぎ、地にはカンバスを敷いた。夜に備えて薪を集める者飯を炊くもの、山刀をヤスリで研ぐ者……賑やかに大声で話しながらたちまち用意が整った。塩鰯が焼ける匂いが森に流れた。
 「さあ飯だぞ!」
 「腹が減ったなあ。やはりイワシの方がボウダラ(干ダラ)よりいい匂いがする」
 「値段が高いからなあ」
 二十人の若者たちは運平を中心に円座をつくって、飯をむさぼり喰った。
 夕暮れが迫っていた。焚火が夜営の回わりに燃やされた。ピンガのビンが回わされる。頬を赫々と照らされながら、若者たちはゴクゴクと酒をラッパ飲みにした。
 「火の番は四人ずつ、二時間交代だ。オンサ(アメリカヒョウ)に気を付けろ班長の山下と重本は各自の班から二人ずつ順番を決めろ。あとは寝てよし」彼はそう言って、ゴロッと横になった。
 森の奥から夜行性の動物の鳴き声が聞えてくる。この先発隊は二百数十家族の、いや全移民の期待を担って森を進んでいるのだった。誰もがその想いで興奮し、張切っていた。仲々寝付かれないらしく、低い話声があちこちでしている。パチパチと火がはぜている。冬の夜だが、焚火が近いのでゴロ寝していても寒さは感じ なかった。
 運平はいつの間にかまどろんだ。

 目が覚めた……。長年の習慣で、日の出のほぼ一時間前だと解る。森は霧の底でまだ眠っていた。彼は天幕の外に出ると思い切りノビをした。地上に寝ると、やはり体の節々が痛い。しかし、首を曲げたり手を振ったりすると、痛みは他愛なく体から逃げていった。
 一人が起きると、紐でつながれたように全員が起きだした。コーヒーをわかしてパンを噛り、天幕を片付ける頃には霧が白くなり、樹の影だけがとり残されたように黒く霧の中に浮かびはじめた。
「さあ、出発だ」

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