ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(31)

水野龍(Public domain, via Wikimedia Commons)

 水野の粘りは功を奏した。というのは、二年前の補助打切り通告の直後に始まった欧州戦争(第一次世界大戦)の影響で、ブラジルへの移民が激減、ファゼンダの労務者が不足していたのだ。
 州政府は水野たちの請願を入れ、別の業者に与えていた枠を融通させ、日本人を受け入れるという便法を講じた。またしても南欧移民の代用であった。が、ともかく一九一七年、若狭丸移民(一、三〇〇人)により、事業は再開された。
 同じ年、日本では、既存の移民会社が合併、海外興業㈱、略して海興が発足した。
 移民会社は、それまでに急速に淘汰が進み、数社に減っていたが、それをさらに一社に統合したのである。(すぐ参加せず、後から加わったところもある)
 事業を一本化、国家の後押しを得るためであった。水野は専務に就任した。
 海興の主たる事業対象国はブラジルであった。そのブラジル移民に関しては「第一人者は水野龍」という評価が、業界で生まれていた。時間とは有難いもので、初期の失敗の記憶は風化していたのである。
 しかし第一人者とは、あくまで「移住」に限っての評価と解釈すべきであろう。
 移民事業には、移民を募集し相手国へ運ぶ移住の他に、もう一つ重要な部門がある。その移民が自立し相手国へ根づく……少なくとも長期的に営農活動をするための「植民」事業である。
 水野は植民に関しては、リオ州マカエで悲話を一つ作っただけで、何の実績もなかった。
 一九二〇年、前記の融通して貰った移民枠が尽きた。お情けのようにサンパウロ州政府が出した翌年分の三、〇〇〇人の枠が最後となった。
 大戦は終了しており、以後、移民枠はポルトガル、スペイン、イタリアのみに割り当てられ、日本はゼロであった。残るは、船賃全額を自己負担しての渡航しかなかった。現実問題として、それは極めて難しかった。
 日本からの移民は、このままで行くと、またも後が絶えるという局面に入っていた。前回に続く日系社会二度目の危機であった。
 同年、水野は海興の専務として、何度目かの訪伯をした。新たな対ブラジル戦略を練るためである。この時はサンパウロ州が駄目なら……とミナス州政府と交渉、一個の植民地建設計画をつくり上げた。
 翌年、帰国、それを社長の神山閏次(じゅんじ)に献策した。が、投資資金の回収が五十年もかかるという目論み内容であり、神山は、
 「水野さんは実業家ではない」
 と歎いた。
 然り……水野は、自分を実業家などとは思っていなかった。国士のつもりであった。国士として日本民族の海外発展を図ろうとしていた。憤然として辞職しミナスの案件をモノにすべく、個人で金主探しに走り回ったが、目処がつかぬままに終る。
 一九二三(大12)年、水野渡伯。今度はパラナ州を訪れて帰国した。翌年、その州都クリチーバへ移り住むという飛躍を演じた。
 カフェー・パウリスタ社は従弟に譲り、家族を伴って日本を去った。永住の予定であった。歳六十代半ば近く、そのまま日本で隠棲した方が自然であったが、この挙に踏み切った。
 その水野を迎えた日系社会は━━かつて彼の粗放さの犠牲になった人々は別であったが━━この老人に親しげな視線を向け始める。
 「水野さんは、自分が送り込んだ移民たちが苦労しているブラジルに、死処を求めた」
 と感激したのである。
 水野に関して、移民の開祖という敬称が資料類に現れるのは、この頃からである。一部に生まれた敬愛者が、そういう文字を使用した。
 しかし水野の本心は、実はそういうこととは少し違っていた。
 永住の予定だから、いずれこの国の土になる……つもりではあった。が、まだまだ死ぬつもりはなかった。
 それよりも、その天性の並はずれた精気が、なお衰えることなく、自身を新事業に向けて駆り立てていたのである。
 ミナスの案件は流れてしまったため、今度はパラナ州での旗揚げを狙ったのだ。当時は邦人が少なかったクリチーバに居を定めたのも、ここで、州政府に接近するためであった。
 「七転び八起き」どころか「百回転んでも百一回起き上がる」という精気の持ち主だったのである。
 ただ、パラナでの旗揚げに具体策があったわけではない。年齢からしても限度が来るのは、そう遠くない筈だった。急ぐ必要があった。
 しかし……である。さら十数年の雌伏を余儀なくされる。しかる後に、植民地建設に着手する。 
 が、それは時期的にも、かなり先の話であり、別章に譲らざるを得ない。
 以上、水野とその周辺の人々を通して、初期の移民事業の内の移住部門を粗描してみた。
 水野が東京からクリチーバへ移り住んだ一九二四年時点で計算すると、笠戸丸以来の移民は総計三万五、〇〇〇人を数えていた。

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