ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(32)

三章

 植民に奔(ハシ)る人々

 日本移民は笠戸丸以来、暫くは断続的に、やがて継続的に渡航、サントスに上陸、ファゼンダに送られ、カフェー園で就労、やがて、そこを出て行った。
 それは一つの歴史になりつつあった。一九二二年、サンパウロ州政府による「船賃補助つき移民枠」の供与打切りにより、中断の危機に見舞われていたが──。
 今回は、そちらの話はひと休みして、ファゼンダを出た後に視線を移してみる。彼らの一部は商業その他へ転じたが、殆どは自営農を目指した。

水野龍(Public domain, via Wikimedia Commons)

 ここで、本来なら前章末尾近くで触れた植民事業が存在しなければならなかった。ところが、それは用意されていなかったのである。もっとも初めから、そうだったわけではない。実は一九〇七年、水野龍がサンパウロ州政府の農務長官と交わした契約書には、
 「日本移民が、ファゼンダでの義務を果した後は、州政府が植民地を造って、土地を年賦で分譲、入植させる」
 という一項が含まれていた。
 つまり植民地が用意されていた。
 ここで、一般的な意味での移民用の植民地について少し説明しておくと。
──
 古くは王室自身が造成者であり、共和制へ移行後は、中央・地方の行政府や民間業者が、その役割を担うようになっていた。
 日本移民が始まった頃も、国や州の政府が造っていた。前世紀末からの移民の激減対策であった。彼らがファゼンダで就労後、好条件で入ることが出来るよう配慮されていた。これで移住意欲を刺激しようとしたのだ。ただ、こういう植民地の数は少なかった。
 その点、まことに多くできたのが、民間の土地会社のそれである。当時、サンパウロ州内には、鉄道が次々と敷設されており、土地会社は、その沿線の原生林を買収、駅が出来ると、植民地としてロッテアメント(区画割りして分譲)した。原生林であるから、土地は肥沃で、肥料無しで作物が良くできた。
 コンセッソン方式によるものもあった。
 コンセッソンとは「条件つき譲渡」のことである。国内、国外の企業や実業家が、国や州から広大な土地を無償で譲渡を受け、植民地として農作物を育て、さらに商工鉱業その他の各種事業を起こした。
 それを何年で実行するという条件つきであった。実行できない場合、土地は返還しなければならなかった。
 このほか、無計画、自然発生的に生まれた小さな入植地が大きくなって行ったケースもあった。これは植民地とはいわなかったが……。
 話を戻すと、前記の水野龍がサンパウロ州政府の農務長官と交わした植民地に関する契約であるが、これは実行されなかった。
 笠戸丸移民たちが配耕先のファゼンダで、ストライキを起こしたり逃亡したり……で、義務を果すどころではなかったからである。
 怒った農務長官は、第二回移民の折、この一項の削除を要求、水野はそれを呑んでしまった。これには時の公使内田定槌(さだつち)が激怒したという。が、以後、その項が復活することはなかった。
 ために移民たちは、自力で植民地を造るか小さな入植地を探さねばならなかった。
 単独で土地を求める者もいた。
 が、その比率はごく僅かで、他は集団で生活・営農することを望んだ。というのは、彼らは、この国の言葉に不自由だったからである。ファゼンダの中だけで暮していたため、片言のポルトガル語しか覚えられなかったこともあるが、元々、外国語会話の習得が苦手な民族であった。
 言葉が不自由なくらいだから、この国の総ての事情に無知だった。
 それと移民会社に騙され、ファゼンダに虐げられ、ウンザリしていた。仲間はできるだけ大勢の方が安心だった。大勢おれば、ポ語の習得の早い者もいる。賢い者、強い者もおるだろう。
 かくして植民に奔る人々が相次いだ。

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