小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=62

 九月になればコーヒー農園の契約が終った入植者たちがやってくる。それまでに一応の受け入れ体制を整えなければならないから、先 発隊は目が回るほど忙しかった。米と豆と干肉だけを喰って働き続けていると、誰もが目がくぼんできた。
 運平が山に入りきりでは入植者との連絡がつかないので、彼は中継駅のバウル市に「平野植民地事務所」を開いた。イサノもグァタパラから事務所に移って来た。
 道路を地元のペドロという男に請負わせて、荷馬車が通れる道を目安に完成を急がせた。九月の半ばに路が出来ると、待ちかねていた入植者たちが移って来た。
 丘を越え谷を渡って荷車を押しながら辿りついた人々は、清冽なドラード河一帯に広がる豊かな湿地帯を見て狂喜した。誰が見ても、文句なしに米が出来る地相だった。
「腹一杯米が喰えるぞ!」誰もがそう叫んだ。
 日本人は米がなければ生きている気がしないのだった。豆やトウモロコシの主食というのは馴染めない。
 コーヒーを栽培するために入植したのだが、コーヒーはコーヒーとして、まず自分たちが食う米が第一だった。米が食えない人生なんて、いくら金を儲けても意味がない。
 人々は収容所を中心に仮小屋を建てて、その辺一帯から動こうとしなかった。奥にはゆるやかな丘が続いている。ブラジルの自然の中で〝湿地帯″に住むということがどういう意味を持つか……瑞穂の国の民は誰も知らなかった。

 河に添って湿地帯が渺々と広がっている。いずれは地区割りにするにしても、差し当ってはその辺に米を植えて食糧を確保する必要がある。
 どこをどう耕しても誰にも文句を言われない楽園だった。人々が有頂天になったのも当然だった。草や小潅木をなぎ倒して数日枯らしてから火をつける。火が消えたら、クワの角でチョイチョイと穴をあけ、数粒のモミを落して足で土をかける。それだけの手間だった。
 若い夫が穴をあけ、その後から妻がモミを入れて穴をふさいでいる一対の姿が、あちこちで人形のようにゆっくり動いていた。決ってサルの群がそんな人間たちを木の上から見物していた。
 時として一対の動きが崩れ、
「キャーッ!」
と女の悲鳴が上る。
「ヘビだぁ」
 それっと手近かの男たちが駆けよる。何の肉でも食用として大事だったが、特にヘビは滋養がある。リューマチにも利くようだった。大蛇の多い処だった。森に棲むジボイヤもいたが、湿地帯を好むスクリー(水蛇=アナコンダ)の方が多かった。五メートルから十メートルくらいあった。(つづく)

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