ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(34)

 山県勇三郎

山県勇三郎(『物故先駆者列伝』1958年)

 やはり同年。山県勇三郎が大型のファゼンダを手に入れた。
 この人物については一章で紹介済みだが、明治日本の資本主義勃興期に現れた風雲児の一人……といってよかろう。肥前平戸の産で江戸時代末期一八六〇年の生まれというから、水野龍とほぼ同年である。
 血の気の多さも同じだった。
 西南戦争の折、西郷の下に馳せ参じようとしたが、西郷は敗れてしまった。山県が十代末のことである。
次いで「郷関を去り東都に出で、北米行を謀るも、遂に成らず」と一資料にある。これも水野と似ている。慶応義塾に一時、籍を置いていたことまで同じだ。もっとも、在籍期間は数カ月で、出席は十数日、試験は全科目、零点であったという。
 陸軍士官学校を受験したこともあるが、受かる筈はなかった。
 その後、北海道へ行き鰊漁で当て、土地や汽船の売買でさらに儲け、海運、貿易、倉庫、鉱山、牧畜から学校、新聞にまで事業の手を広げた。東京ほか十数カ所に事業拠点を置いた。
 なお、この内の新聞とは小樽日報のことで、ここには、野口雨情や石川啄木が記者として働いていたことがある。(ただし野口は一カ月ていどで辞めている)
 山県が最初に当てた鰊漁は、漁場の権利を買って網を張っておき、鰊の大群が迷い込んでくる(?)のを待つ……来れば大儲け、来なければ大損という賭博同然の仕事であった。その後の事業も、多くは投機的なものであった。得体の知れぬ宗教家の指示に従って、次々と投機を繰り返していた。奇妙なことに、それが当たりに当たり、急激に伸びたのである。
 ところが、日露戦争中から戦後にかけて、サイコロは裏目、裏目と転び続ける。戦争中は、満州の厳冬に備えて、日本軍の暖房用に木炭の大量買い占めをやった。ところが、冬が来る前に戦争は終ってしまい、大損害を被った。これで山県商店は傾く。水野の缶詰生産とそっくりだ。
 戦後は、積み荷を満載した持ち船が相次ぎ事故に見舞われ、さらに函館の大火で本店、倉庫、自宅から別宅まで丸焼け! 政界への進出を図ったこともあったが、成らなかった。
 かくして破産必至となり、債鬼から逃れるため、地球の反対側まで高飛びしたことは一章で記した。
 リオに落ち着いた山県はここで、新事業を試みた。その発想たるや、いかにも、この男らしく独創的で、日本から職人を呼んで花火や扇子を作ったという。ただし花火の方は、製造したそれが爆発、事業計画も吹っ飛んだ。扇子については資料を欠く。
 山県は次にファゼンダの経営を企てた。といっても、この分野は素人である。その時、誰かが安田良一の名を教えた。
 安田(前章参照)はマカエでの隈部一家との開拓計画に見切りをつけて、そこを去った。その後、同じマカエで米や豆類を作っていた。が、成績は芳しくなかった。ただ、日本人が珍しかったせいもあろう、マカエの町長が彼に協力してくれ、親しくなっていた。
 山県は手紙を書いて安田を招いた。安田は、山県を大資本家と聞いており、喜んで応じた。ファゼンダを手に入れたいという希望を聞き、その話を町長に繋いだ。町長は喜んで適当なファゼンダを見つけてくれた。
 そこは、邸宅のほかカフェー園、砂糖黍畑、カフェーの実の精選工場、砂糖黍でピンガをつくる醸造工場があり、牛馬もおった。使用人も相応にいた。広さは五千㌶ともいうし、その半分くらいだったともいう。
 所有者は事情があって売り急いでおり、すぐ話に乗ってきた。
 が、山県の方は、実は所持金は尽きていた。事情を話すと、所有者は先払い、分割払いの好条件にしてくれた。そこで買い取ることにし、安田を支配人にして送り込んだ。
 しかる後、長崎から呼び寄せたという夫人、リオで一緒だった花火職人夫婦、扇子職人、その他を含め計八人を引き連れ、現地入りした。山県はシルクハットにステッキという出で立ちでマカエの駅に降り立った。一行の荷物はなんと貨車二輛分もあった。
 それを町長が「日本の大資本家、来たる」と楽隊を従えて迎えた。歓迎マーチが静かなマカエの町に響き渡った。夜は、ホテルで歓迎会……と言う具合で大変な持て方だった。

最新記事