アチコチで小入植地造り
同時期、移民の自力による小さな入植地造りがアチコチで行われていた。
一九一三年。サンパウロの北側、カンタレイラ線ジュケリーの山峡に十家族ほどの集落が生まれた。
これには、次のような話があった。
前年、サントスに入港した東洋移民会社の神奈川丸移民の一人に秋村長壽という熊本県人がいた。
この秋村が、ファゼンダでの一年間の就労を終える直前、自分と仲間の入植地を探して旅行中、前出のタイパスの馬見塚竹造と知り合った。
馬見塚は秋村に、ファグンデスというポルトガル人を紹介した。秋村はファグンデスから、ジュケリーの土地を買うことになった。ところが、実は資金を用意していなかった。普通なら、ここで話は消えるところだが、そうはならず、前に進んだ。
ファグンデスが大の日本人好きで、五カ年払い、無利子、手付け金無しという破格の好条件で承諾してくれたのである。その上、十家族分のファゼンダからの移動費や当座の食糧まで貸してくれた。
買った土地は一二〇㌶ほどで、馬見塚を真似てバタチーニャを植えた。
できたバタチーニャは品質もよく、サンパウロ市場の品切れ時に出荷でき、販売も軌道に乗った。
やがて周囲に、次々と新しい邦人が入植するようになった。
ファグンデスは、不幸にして晩年は無一文の境遇に陥った。家族も居なかった。邦人たちは彼を保護し、その病死に際しては、篤く看護し葬ったという。
このジュケリーには、後に邦人社会の城の一つとなるスール・ブラジル農協が生まれる。(地名は、現在はマイリポラン市となっている)
同じ一九一三年。大西洋岸、サントス──ジュキア線アナ・ジアスの風光明媚な山峡の平地で、沖縄県人の若者六人ほどが、野菜や米を作り始めた。彼らは笠戸丸移民で、ファゼンダから逃亡、サントスで鉄道工事の工夫をした後、ここに入った。
作った米は、粗悪品だったが、それを付近のカイサーラに売って生活した。カイサーラとは、海浜に暮らす原住民インヂオのことである。
土地は、州有地を勝手に使っていたという。後に払下げを受けた。
この辺りには同県人の入植が多数続いた。それはサントス──ジュキア線の沿線一帯に広がって行く。
やはり一九一三年。南樹も再起を期して動いていた。コンデ街に居た八人の若者を率いて、サンパウロの西方約五〇㌔地点にあった一開発地に入植した。
翌年そこに見切りをつけて、サンパウロ寄りのコチア村のモイーニョ・ヴェーリョという処へ移った。コンデ組の若者は三人に減っていた。ほかの五人は散ってしまったのである。
コチアは、現在は中型の市となっているが、当時は、カボクロと呼ばれる貧しい農民たちが細々と豆やとうもろこしを栽培、豚や鶏を飼っていた。その中心部の丘の中腹に、教会や中世ヨーロッパ風の建築物が幾つかあった。
モイーニョ・ヴェーリョとは、直訳すれば「古い製粉所」だが、地元の人間が、水車小屋式の粉碾き場が在った辺りを指して、そう素朴に言い慣わしている内に、地名になったようである。
ここに、南樹たちがやって来たとき、その見窄らしいボロ着姿に、地元の住民は原住民のインヂオと間違えたという。インヂオは日本人と酷似している。
彼らは開拓を始めた。しかし十分な農業技術を持っていなかった。そこで南樹が汽車に乗って、ファゼンダ・グァタパラまで旅をし、平野運平に「営農経験豊かな家族を招きたい」と依頼した。すると平野は快く承諾「それでは、誰々がよかろう」とカロッサ(荷馬車)で駆け回って、希望者を募ってくれた。
この希望者を受け入れる準備をするために、南樹はモイーニョ・ヴェーリョに戻った。が、そのうち彼自身が姿を消してしまう。畑で採れた僅かの作物を、サンパウロまで出荷したものの、売上げを賭事ですってしまい、戻れなくなったのだ。
コンデ組の若者も、さらに一人減り、残るは二人だけになっていた。グァタパラから来たのは、年の暮れまでに、わずか一家族だった。風前の灯であった。