ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(39)

 ところが、翌一九一五年、新たな入植者が三十数家族もあった。グァタパラからの後続組である。それ以外から来た者もいた。その中に下元という高知県人の一家がいた。前年、渡航、サンパウロ州西南部を走る奥ソロカバナ線沿線のファゼンダに入ったが、
「米の飯を食べれば、借金ができるので、マンジョカやさつま芋を主食にする有り様。契約期間の一年が終わると、直ぐ出てきた」
 ということであった。
 その下元家に一人の若者がいた。当主の実弟で健吉といい、十七歳だった。これが十数年後、コチア産業組合の創立に加わり、さらに、その牽引車となってブラジル最大の産組に育て上げる。が、この頃は「米の飯食べたさに、月夜にブレージョをカボッカしていた」という。湿地を掘り返して稲田を作っていた、という意味である。

 悲劇の主人公?平野運平

 一九一五年、平野運平が、植民地建設に乗り出した。
 以下はパウリスタ新聞刊『コロニアの歩み五十年』やブラジル時報その他からの引用である。
 その植民地の場所はサンパウロ州中西部、ノロエステ線のプレジデンテ・ペンナ駅から東北へ十数㌔、ドウラード川の対岸で、入手した土地は四千㌶近い原生林であった。これが、やがて平野植民地と呼ばれるようになる。
 土地代は、地主との交渉で、分割払いということになっていた。
 入植者はファゼンダ・グァタパラで働く邦人移民から募った。八十二家族が応じた。同時期ファゼンダ側との契約が終了した者が多かったが、継続中の者は罰金を払って承知して貰った。
 平野を含む先発隊二〇人が八月二日現地入りした。本隊は後から来ることになっていた。
 先発隊はペンナ駅から目的地に向かった。荷物の一部を肩に、二〇人は一列になって、密林の中を踏み分け、踏み分け前に進んだ。
 先頭と後尾は銃を持った者が固めた。野獣に備えてのことである。
 その夜は露営し、翌日の昼頃、目的地に着いた。
 皆、疲れていたが、思わず万歳を高らかに叫んだ。
 「ドウラード河畔の密林に日本語がこだましたのは、有史以来のことだろう」
と誇り合った。
 ファゼンダでの半奴隷生活を脱して自営農になれる歓びに勇み立っていたのだ。
 この先発隊を追う様に、以後、残りの入植者が次々とやってきた。
 平野は、実は業者に頼んで土地を測量、区画割りや道づくりをして後、彼らを呼ぶつもりだった。が、誰もがそれを待てなかったのである。
 ともあれ取り敢えず、仮住宅をつくることになった。
 皆、思い思いに幅三㍍、奥行き四㍍くらいの小さな小屋をつくった。
 場所は殆どが川べりを選んだ。水を手軽に入手するためである。中には小川の上に傍の椰子の木を何本も切り倒し、橋の様に渡し、その上に小屋がけをして「涼しい」と自慢する者すらいた。
 しかし、これは事情通から観れば、危険極まりなかった。川にはマラリアや風土病を媒介する蚊が多いからだ。
 また、病気対策としては、十分な栄養をとって抵抗力をつける必要があった。が、食糧はマンジョカの粉、フェイジョン、パルミット程度で間に合わせた。これでは完全な栄養不足だった。 
 その他の食糧、例えば米については、先発隊が川岸の雑木林を伐り拓いて籾を蒔いていた。
 季節は雨期に入り、稲が育ち始めた。予想以上に良い成長ぶりだった。誰もが米が食べられると楽しみにしていた。
 しかし。──
 十二月に入ると、身体に異変を感じる者が出始めた。夏だというのに何となく背筋がゾクゾクする。そうかと思うと、やにわに身体が熱くやりきれなくなり、木陰に入っても汗が滝の様に流れる。
 その病状が一日おき、あるいは二、三日おきに現れる。
 最初の死者が出た。文野という家の女房である。
 この家族は、浅瀬に杭を立てて小屋がけをしていた。
 女房は熱のため衰弱し切って、柔らかなパルミットさえ食べられなくなった。枯れ木の様にやせ細り、一週間ばかりうわごとを言い続けて。息を引き取った。一九一六年の正月を四、五日後に控えてのことである。
 入植者の居住地から少し離れた処に、仮の墓地をつくり埋葬した。

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