ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(42)

コロニア平野会館にある平野運平肖像画(半田知雄画)

 平野運平。静岡県人。一八八六(明19)年生。
 彼は着伯後、笠戸丸移民の通訳としてファゼンダ・グァタパラに行った。
 そこで(通訳の仕事のほかに)移民たちの生活用品を、自分が外部でまとめて安く購入、搬入することを上司に認めさせ、実行した。ファゼンダ内の売店の法外な値段で買わなくても済む様にしたのである。
 また、他のファゼンダでストライキが次々と発生した時、グァタパラにも飛び火しかけたが、平野が未然に防いだ。
 その功が、初の日本移民の成果に注目していた州政府の農務局に報告され、統率力が称賛された。それが邦人社会にハネ返ってきた時には「偉い人たちに誉められた」ということで、響きは何倍にもなっていた。
 しかも平野の上司、支配人のジョゼ・サルトーリオが彼を副支配人に起用した。当時の感覚でいうと出世である。
平野の名は一段と上がった。
 サルトーリオは、やがてカフェー園に関しては、一切を平野に任せるようになった。南欧からの移民を含めて、コロノ(契約制の労務者)数百家族の采配を任せた。それを補助する現場監が十人ついた。内九人は日本人であった。
 平野は毎日、馬の背から二〇〇万本のカフェーと数百家族のコロノの仕事ぶりを見回った。身体は小柄だったが、馬に乗って駆け回る姿は威風辺りを払った。
 その内、サルトーリオが独立して、自分のカフェー園を持とうとした。
 平野は協力した。その造成と四〇万本の植付けと栽培を、四年契約で請け負ったのである。そのため、グァタパラでの契約期間を終えた日本移民四十家族を送り込んだ。
 この請負は、副支配人と兼務であったろう。 
 平野は、この仕事で得た資金で、植民地建設に乗り出したのである。
 通訳五人男の内、他の四人と比べると、トントン拍子であった。颯爽たる青年実業家のイメージが、面識がない人々の間にまで広まっていた。
 平野は人に好かれるタイプだったという説もある。例えば、彼を良く知る横溝一男という人が、次の様な記録を残している。
 「平野は背が低くて、一寸目尻が下がった、太った好感を持てる人であった。三十に満たぬ若輩にもかかわらず、総領事松村貞雄氏から支持を得たほどで、真面目で芯の通った性格であった」
 総領事は日本政府の代表であり、当時は随分と権威があった。その総領事からも好意を持たれ支持を得たというのである。
 人気は膨れ上がった。
 いつの時代にも、大衆はヒーローを欲しがる。
 当時、各地の邦人社会には、日本出発前の期待とは違う現実に、陰々たる空気が流れていた。そういう中では誰か光を発する人間が現れることが期待される。そこに平野が登場した。
 移民たちが渇望する植民地建設に、果敢に挑んだ。
 しかし非業の死を遂げた。
 かくして大衆心理が判官贔屓に傾いた。ために責任追及はされなかった。
 その上、死後、美談が生れた。
 前記の様に、土地代の支払いに窮した時、平野は松村の助力を得た。それは返済できぬまま逝った。
 十数年の歳月が流れて、入植二十周年の折、植民地の代表者が日本に居る松村夫人に返済しようと手紙を送った。(松村は故人になっていた)
 すると夫人から返書が届いた。その中に次の様な部分があった。
 「(平野植民地が)今日の発展をなされ候事それ丈にて故人は無上の満足を感じ居候事と存候二十年後の今日皆様にてなお御返済の思召もあらせられ候はばその金子にて何なりとも平野植民地公共の事業に御使用下されいやが上にも御発展……」(原文のママ)

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