ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(43)

コロニア平野会館にある平野運平肖像画(半田知雄画)

 夫人は、この頃、皇族の賀陽宮の御用係をつとめていた。
 植民地の人々は、その返書の内容に感激、それでは、と瑪瑙を贈り、返済金は「松村奨学金」として役立てた。
 こういう具合に、すべてが大衆演劇風に筋書きが整い、それが口から口へ広く伝わる内に、平野は悲劇の主人公として伝説化されて行った。
 何しろ、そのドラマは浪曲になって、各地の舞台の上で語られたほどなのである。(当時、邦人社会には、セミプロ級の浪曲師が少なからず居った)
 しかしながら、この平野にも裏面があった。
 グァタパラで平野が、移民の生活用品を外部で纏めて安く購入・搬入したという話も、南樹は、
「そういうことも(一度や二度は)あったろうが、毎月、町の商店へ買いに行くことなど出来るものではない」
 と否定的だ。
 移民たちのストライキを未然に防いだ統率力の件でも、南樹は、
 「平野は移民たちが他所の騒動に刺激された気配を察すると、以後、彼らを絶対に農場外に出さず、手紙も検閲し、少しでもファゼンダ側に不利益を来たすようなものは没収した」
 としている。
 さらに機先を制して、騒ぎを扇動しそうな二人の移民を追放した。
 ファゼンダの農年の終わりを二月にするという様なことまでした。
 農年とは、十二月を区切りとする暦年とは別に、営農活動を基準として作成される年度の区切り方である。普通は十月であった。二月では中途半端であり、他のファゼンダへ移ろうとしても受け入れる処は少ない。つまり辞め難くしたのである。
 支配人のサルトーリオが、平野を副支配人にしたのにも、それなりの思惑があった。彼は、日本移民は使い易いと見ていた。そこで平野に管理させるという前提で、増員して導入することにした。そのための移民会社との交渉を平野に任せた。
 このファゼンダの日本移民の雇用数は、最初の八八人に対し、二回目は二三三人と増え、その後も同様であった。ために多い時には、ファゼンダの居住者の四割を占めるほどになった。
前記の様に、平野は、サルトーリオからカフェー園造成を請け負った時も、彼らの一部を、そちらに回している。
 つまり平野の副支配人起用には、サルトーリオの利害が絡んでいたのである。
 また入植時、ストライキの阻止に成功したというが、資料類によると、その半年後にはファゼンダの日本移民は、三割近く減っている。定着率は良くなかったのだ。
 平野の配下の現場監督には、畑中仙次郎、福川薩然、富岡漸ら後に邦人社会で、よく知られるようになる若者たちがいた。
 それ以外にも同年輩の優秀な人材として、瀧沢仁三郎、馬場直などが居った。が、彼らは不平組と呼ばれていた。平野が冷遇していたのである。
 やがて瀧沢は州境を越えミナス州の南端コンキスタへ行き、借地して米作を始めた。平野の子分だった筈の富岡が、その同志となっていた。一九一四年のことである。
 同年、馬場も一派を立てて、ファゼンダを出た。
 以上の幾つかの事実から推定すると、平野はある種の統率力はあったかもしれないが、余り気持ち良いそれとは言い難い。
 人に好かれたという説も、そのまま鵜呑みにはできない。
 以下はグァタパラでの話だが、移民たちの頼みには、冷淡な一面もあった。何か頼もうとしても「明日、事務所へ来い」と拒否、その明日に行くと「明日もう一度来い」という様なことが少なからずあった。
 次の様な話もあった。ある時、奥村某の子供がブラジル人の子供と喧嘩をした。奥村は自分の子供が正しいと思ったので、言葉は判らぬまま日本語で文句を言った。すると相手の子供の親がフォイッセ(鎌)を持ち出し、奥村に傷を負わせた。悔しがった奥村は、平野の処に行き、訴えた。
 が、平野は、
 「なに! 斬られた! 何故斬られる前に斬らないんだ。ケガしたなら、ここへ来て何になる。さっさと薬屋へ行け。死んだら骨だけは拾ってやろう」
 と、けんもほろろだった。

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