特別寄稿=松原移住地の入植初期の思い出=柳生豊彦=(下)額に汗して「明けましておめでとう」

松原移住地中央に日本人会会館を建設、お祝いの運動会並びに敬老会を開いた時の風景(柳生豊彦氏提供)

突然の豪雨、ドラム缶をかぶって雨宿り

 その時、パラパラパラと一体何の音だろうと思っていると、ダダダと大雨が降ってきた。考える間もないのである。担いでいるドラム缶を下ろしてひっくり返し、頭からドラム缶をかぶり、その場にあぐらをかいて座るが、とても窮屈である。が、これなら雨を防げるし、いろいろな動物が出てきても恐ろしくない。そう思っていると座っている尻の下に水が流れてきて、とても冷たく、そして中腰になればドラム缶の重さにうんざりという状態になった。
 世の中はうまくいくようでうまくいかないことが多いとつくづく思った。
 朝の日の出頃、やっと家にたどり着いた。母や家内が口を揃えて、「もう殺されたのかと思い、とても心配した」と言う。腹がペコペコでしかも疲労で口も開けず、ゴロッとドラム缶を置くと同時に寝てしまった。4時間程眠って気が付くと、もう手から足からブトがいっぱいたかってかゆくてならない。雨が降っている間は、涼しくてブトも蚊もでないが、日が照り出すとブトの出撃である。原始林に馴れるまではできものができたり、目をやられたりした。目を患ったならば、丁度目の中を荒ほうきでかき回されるが如く、痛くて寝ても立ってもいられない。初めに誰もが味わう目痛だ。
 井戸から水が出たということは有り難いことだ。水がないほど不自由で不潔なことはない。バケツに直径15cm位の芯棒をつけ、人差し指大の綱を結んで巻き上げる。一巻き一巻きとバケツの中の水が上に上がって来る。そんな時、赤い夕陽が原始林の中に沈んでいくのを眺めると、なぜか日本を恋しく想ってくる。

「風呂に入るのか、汚れに入るのかわからん」

 家内と二人で、食べる時間も惜しんで、朝から風呂作りをする。暑い太陽のもとで、二人引きの鋸で木を切って、太い木と木の間にドラム缶を乗せて一応の準備をしたが、開きっぱなしの風呂じゃどうもきまりが悪い、と家内が言う。そこで四方に柱を立てて、布を張り巡らして浴場を作った。小さなバケツをぐるぐると何回ともなく巻いて、水をドラム缶に入れた。その度に段々と水の色が赤茶色になって、終わりにはドロを汲み上げてきた。井戸の水位がなく、まだ上面だけ水だった。ドラム缶の中には7分目の赤い水が貯まった。
 家内が中を覗いてみると、あまりにきたない水で、「風呂に入るのか、汚れに入るのかわからん」と言う。それでも暗くなるのが待ち遠しく、やや暗くなってきたのでドラム缶の下に火を点けた。暑いから風呂の水も1時間余りで湯になった。一番先に入ったが、ドラム缶の中にゲス板をつけるのを忘れて、足が熱くて入っていられない。大声で、家内に日本から持ってきた下駄を持ってきてもらい、下駄をはいて湯につかった。日本を出発して初めての風呂で、気持ちの良いことといったら温泉以上である。
 順番に母、家内、子供、と入ったが、赤土の水のためかいつまでも体がポカポカとしている。

いよいよコーヒー蒔き付け開始

 風呂や井戸ばかりにかかってはいられない。焼け跡を始末して、コーヒーの蒔き付けに取り掛からなければならない。30mから40mの針金に、3・5m間隔にその人その人の思い思いの赤や白の布切れを結んで、両端を竿につけて引き締め、布切れの下に鍬で印をつける。縦横に印をつけ終わってから、印の下に20~30cm×50cm、深さ20cm位の穴を掘り、その中に8粒から10粒位の種を蒔く。
 その上に木を割って薪のようにして、直射日光が入らないように、また土砂や枯葉が入らないように蓋をしておく。人数が少ない家は互いに手伝わなければできない仕事である。
 日本と違って四季の区別がはっきりしない。気を遣うのは9月から2月までの雨期、2月から8月頃までの乾燥期の区別で、雨期の初めは蒔き付け時期、乾燥期の初めは収穫期で、後は準備期である。雨期に入るまでにコーヒーを蒔き、米、フェジョン等はコーヒーの間に間作の用意をしておくのである。入植以来、4~5カ月たったが、どの家にも野菜がない。作る暇がないのである。老人にふさわしい仕事でもある野菜作りでも水がないのである。殊に今年は雨が遅いといわれる。ぐずぐずしている中に12月頃となってしまった。
 シャツはほとんど切れて、塩や砂糖の袋、それに日本から持って来た着物でシャツを作ったりしたが、体裁のいいものではない。黒地のものは二倍暑くて、ブトがより多くたかってくる。植民地の土地は雑作ばかりすると落ち着かず、多年生の作物を植えれば自ずと人の気も落ち着くと言われる。
 そのためか、コーヒー栽培を奨励するので皆熱中する。また植民地の人達は十人十色で、顔や心が違うだけでなく、各自違った技能・技術を身につけているので、それらを持ち寄って生活している。
 雨期が遅いといわれた年だが、雨が降り出してきた。それも日本の梅雨のようではなくスコールのようだ。マット・グロッソ州はサンパウロ州とは気候も違っている。降る、鳴る、光る、の三調子で、屋根の削木を叩く音は耳を聾するばかりである。最初は怖がった人々も段々馴れてきた。というよりも苦しさの中からも強く生きる道を見出していくのが人間の本性であるかもしれない。
 雨が降ると、湯飲み、鍋、釜等炊事道具をはじめ、およそ水の溜まるものなら何でも軒下に持ち出して受けるのである。車軸を流すように降るが、長降りはしない。だから風呂のドラム缶に水を入れるのは、降っている間に全身びしょぬれになって汲み入れるのである。

気分がでないお盆と正月

 11月2日はブラジルのお盆である。この頃から2月頃までの暑さを真夏というのであろう。正月になっても正月気分がでない。汗を流して西瓜をほおばりながら、「あけましておめでとう」では何としてもトンチンカンである。和歌山の冬、紀州の秋などを語って、せめて心だけでも冷やそうと笑った。
 雨期のお陰で、野菜もぼつぼつとできてきたが、何分素人のこと。半アルケールに間作として植えた稲も大きな株となってドンドン伸びてきて、大豊作と思いきや植えた種は半俵30kg。株は大きくなったが、出穂時に雨が降らないと白穂である。その時は運悪く潤いがなく、どこの家も収穫がなかった。
 自分の蒔いた種は、それこそ不出来でも今年1年の食料は穫れると期待するが、何カ月たっても穂が出ず、その上風通しが悪いため、折角芽を出したコーヒーまでむれてしまい、5千本植えたコーヒーのうち、半分がむれてほとんどが真っ黒に枯れてしまった。一年間営々と働き続けたが、主食たる米とコーヒーの半分が枯れて天をうらめしく思った。しかし、芋、マンジョーカ等の栽培、食べ方を覚え、腹の中のやりくりはどうにかついてきた。
 日本人会の設立と教育が問題となり、植民地の人達が皆団結してきた。そして、やがて松原植民地日本人会と日本語学校が誕生した。顧みれば松原植民地の方々は、誰も彼もが子供の教育には熱心で、たくさんの子供達あるいは二世達は現在ブラジル国の重要なポストにあって活躍しており、おそらく松原植民地ほど教育を与えた親達の熱心さが窺われる所は、他にそうないと思われる。
 和歌山県出身の松原安太郎氏のお陰で我々は入植することになったのであるが、おそらく誰もが昼間でも薄暗い未踏の地に入るとは夢にも思わなかっただろう。原始林の中に入るとどんな暑い時でもヒヤッとしている。下は丁度スポンジの上を歩くかのようにフワフワとしている。
 木の上を見れば、猿が幾十匹も連なって、尾を木の枝に「キャッキャッ」とこちらに来いとでも言っているようだ。そうかと思うとケッシャ―ドという野豚が50~60匹列を作って、ザアーザアーと走ってくる。山に入れば山のダニが足についてくる。それに蛇。わけのわからぬ動物がいっぱいだ。旧移民だけれども、日本に引き揚げて再び渡航した人で花岡さんという人がいて、いろいろと教えてもらいとても助かった。
 蛇に脅かされながら枯れたコーヒーを抜き取り、新たに植えた苗木が段々成長してゆく。そして今度こそは、と、米、ナンバ豆等をコーヒーの間作に、時を遅らせないようにと心を配る。しかし、段々と農作物の暴落で心が暗くなる。

入植5周年を祝った松原移住地(松原移民・梅田幸治さん所蔵)

会館や日本語学校建設から野球、角力、運動会、演芸会、映画も

 ブラジル到着当時の几帳面さは誰からも去って、ただ仕事だけに精を出している。今日は何月何日何曜日などといっても、ぼんやりとしてはっきり答えられる人は少ない。また、3年が過ぎた頃、服装たるやチンドン屋顔負けで、青や黄色、黒色の布でつぎはぎだらけである。
 みんながそうであるから恥ずかしくない。その後、病人もたくさん出たし、亡くなった人もいる。開拓半ばで、はるばる日本からきて亡くなった方は本当に気の毒この上もなかった。家族の多い人達は、どんどんと山を開拓して次から次へとコーヒーを植えていった。
 松原植民地の中央の高地は、日本人会会館、日本語学校建設用地と定めて、共同で植民地のいろいろな催しをする。その費用を補うためにコーヒー植えをした。だから自分の仕事ばかりしていられない。会館造りだ、学校造りだ、道路作業だ、橋造りだ、と次から次にどんどんと仕事が増えるばかりである。
 年々少しずつ山を切っていった日本人の耕地の間に、ブラジル人もぼつぼつと入ってくる。
 よくブラジル人に「日本人は休むことを知らない、ちょうど蟻のようだ」と言われ笑われた。
 入植3周年行事を行った人たちが大変だった。4年目頃からコーヒーの木の頭が道から少しだけ見えるようになってきた。整然と立ち並ぶその姿が神々しく見えたものである。
 5年目が来た。コーヒーは1年でとても大きくなってきたが、何よりも恐ろしい強敵は霜である。5月頃から9月末頃までが心配で、寒い晩は寒暖計とにらめっこするのである。
 その年々によって違ってくるが、9月7日ブラジルの独立記念日頃にコーヒーの一番花が咲き始める。コーヒーのこの開花は雨が降らなければいつまでも蕾がローソクのような長い形で、雨と同時に開花して真っ白い花が一面に咲く。そしてその香りたるやとても良い香りで何とも言えない。小雨の降る朝、家の中に寝ていても誰でもが花が咲いたことがわかる。そんな時、思わず目から涙が出てきた。
 これまで野球、角力、運動会、演芸会、映画の会等だんだんと楽しみも増えてきた。植民地の中をバスが通るようになった。ほとんどの家で自家用車を持つようになった。大きなトラックにコーヒーの山を積んで出荷することが夢だったが、それも今や実現し、その喜びに胸がいっぱいになる。
 また電燈も植民地に設置され各家庭に電気が灯り、ランプの姿が消えていった。子供達は、ドウラードス、カンポグランデ、サンパウロと上級の学校に学ぶようになった。小店ばかりだったビラブラジルも新しくファチマドスールと改められた。ファチマドスールには、日本人会、日本語学校、女子青年団ができた。商業に従事している方々は、交通不便をものともせずに遠方より食料、雑貨、必需品を輸送し、届けてくれた。
 このように植民地建設のために、たくさんの周辺の方々に支えていただき、助けていただいたことを決して忘れてはならない。(終わり)

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